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第二展示室 藤村建築の名工
「松木輝殷建築指図展」

まつきてるしげけんちくさしずてん
[1.大工関連資料 | 2.建築資料と文化財指定 | 3.廃仏毀釈と洋風建築 | 4.方眼図面 | 5.大工図面]
[6.身延山久遠寺三門正面図 | 7.設計家としての松木輝殷 | 8.絵様とデザイン | 9.土木関係の仕事]
[10.松木家資料 | 11.父運四郎の板絵 | 12.輝殷を取り巻く人々 | 13.洋風建築への着手 | 14.石川家との繋がり]

14. 石川家との繋(つな)がり
 輝殷は大量に本を所持していましたが、運四郎(うんしろう)がわざわざ手に入れて輝殷に手渡(わた)しています。 おそらくこれは、?語彙集川七郎左衛門(いしかわ・しちろうざえもん)が『初心伝(しょしんでん)』を書く時に実際に参考にした資料だと思います。 どうしてその関係が見えるのかというと、これが発見された関係からです。

 これ(『安政七年一蓮寺作事場金銀出入帳』)は、?語彙集蓮寺(いちれんじ)の?語彙集事場(さくじば)というところの建築の台帳です。 この中に、職人の出入りがあります。 そこに書かれているこの仕事の本来の棟梁(とうりょう)は石川七郎左衛門です。 そして横にある藤巻(ふじまき)という方、これは一蓮寺町の大工、地元の大工です。 この二人が一蓮寺の仕事をやったわけです。

 この時、七郎左衛門はすでに90歳近くですから、現場の仕事はとてもできません。 実際にこの仕事を切り回ししたのは運四郎です。 ですから運四郎のところに現場の帳簿(ちょうぼ)が残ってるのです。

 ここに、運四郎と並んで出てくる名前があります。 この「八三郎(やさぶろう)」という名前、これが輝殷です。 17歳の時で、おそらく15歳のころには大工修行(しゅぎょう)を始めていたと思います。 七郎左衛門のもとで、お父さんの運四郎のもとで、輝殷は仕事を始めているのです。

 石川七郎左衛門の名前の本が一つ、見つかりました。 それは『小児門(しょうにもん)』と書かれた、子どもの病気の時の対応を書いた本です。 それは七郎左衛門の本なのですが、ここから見つかりました。 七郎左衛門にとって運四郎の子は孫のようにかわいかったので、おそらく八三郎、輝殷が何か具合が悪くなった時に、この本を見ろ、と言って七郎左衛門が運四郎に手渡したのではないかと思います。

 ですからおそらく、輝殷はそんなふうにかわいがられていて、輝殷に一生懸命(けんめい)勉強をする意欲が見えた段階で、七郎左衛門が輝殷にこの資料を渡した。 石川外記(げき)と書いてありますから、石川七郎左衛門のさらにお父さんの代から受け継(つ)がれてきた石川家の本を輝殷に見させた、ということが見えてきます。 一つのできごとが、江戸時代から明治にかけてのできごとが、こういう資料から見えてくるのです。

 今見ているのは、松木家資料の中のわずかに5分の1くらいです。 (終わり)

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