11. 父運四郎(うんしろう)の板絵 |
さらにもう一つ、私が今回の資料の中で最も驚(おどろ)いたのは、江戸時代の下山大工の資料が見つかったということです。 今ここに、輝殷に関わるものだけを出してみました。 よくこれを下山から持ってきて現在まで伝えたか、とにかくこれが持ち込まれた時には、ただ唖然(あぜん)とするばかりでした。 |
<図46> 松木運四郎による板絵 |
これは板絵の指図(さしず)<図46>ですが、基本的にはこれは建物を造る時に「こういうものを造りますよ」ということをとりあえず関係者に見せるために、建物を建設をする場所に掲(かか)げられたものではないかと思うのですが。 板絵は現在、県内では2例しか見つかっていません。 これが3例目になります。 この資料を持ってきた時に、とにかく唖然としました。
天保13年(1842)の6月に松木運四郎(うんしろう)、これは宣(せん)という字を書いて下に絹(きぬ)、と書くとこれが本名なのですが、読みがわからないのですが、「八幡宮(はちまんぐう)本社再建」と書いてあります。 ここに「十三分一圖(ず)」と書いてあります。 |
この図面がどういうものかを、よく見ててください。 わかりますか、ここの部分ですね、見えますか。
ここ獅子(しし)が描(えが)いてある。 ここにも獅子が描いてありますね。 ここにもいろいろな彫刻(ちょうこく)が描かれています。 この下にも、この柱のところにもずっと彫刻がありますよね。 複雑なこういうものがあって、その下に、支えるための板の部分に彫刻があります。 この部分に錫杖彫(しゃくじょうぼり)という、こう見るとわかりますよ、錫杖のような彫刻です。
さらに、この部分に斜(なな)めの疵(きず)、線ですね、割り付ける時に使った線が入っています。 江戸時代にどうやってこういう図面を描いたか、この1枚の絵をを分析(ぶんせき)して行くとわかるのです。
例えばここにある線が、階段の傾斜(けいしゃ)線です。 芯(しん)を決める時の線だとか、わからないようになっているのですが、赤外線で見るとこの線が見えるのです。 通常は見えないのですが、ここに一つ見えますね、ここに1本見える、この線が割付線です。 それでここに、読めますか、「下山村棟梁(とうりょう)松木運四郎宣」、1字消えています。
これが輝殷のお父さんが手がけた、中富(なかとみ)の八幡社です。 これが完成した翌年、天保14年(1843)の上棟(じょうとう)式の棟札(むなふだ)が現在でも残っています。 お父さんがすでに、この微細(びさい)な図面を書いていたことがわかりました。 |