ここで一つ見つかったのですが、見えますでしょうか、これに石川七郎左衛門(いしかわ・しちろうざえもん)と書いてあります。 あの七郎左衛門なんです。 ここにもう一つ、石川、下山の石川外記(げき)、と書いてあります。 これが政五郎(まさごろう)です。 ですから、これがお父さんで、これが子です。 金桜(かなざくら)神社の神楽殿(かぐらでん)を造り上げた二人です。 この本には全部、石川琴堂(きんどう)だとか、石川という判子(はんこ)が押(お)してあります。
この、完成した天保14年(1843)という年が、輝殷が生まれた年です。 輝殷は、生まれた時は名前を八三郎(やさぶろう)と呼ばれていました。 輝殷と変えたのは明治8年(1875)です。
石川七郎左衛門の下で長く弟子をやっていた運四郎(うんしろう)が、初めて棟梁(とうりょう)として仕事をすることになったのがこの建物です。 この建物を13年(1842)に手をつけて、翌年の14年(1843)の1月に輝殷が生まれています。
おそらく輝殷は2番目の子で、最初の子は亡(な)くなってしまったのではないかと思いますが、2番目の子どもを授かり、それを聞いて七郎左衛門は運四郎を、一人前の棟梁として仕事をさせたのではないかと思います。 翌年、これを完成したその年に、輝殷が生まれているわけです。
さきほどの小宮山弥太郎(こみやま・やたろう)と、松木輝殷、明治建築を手がけた二人の年齢(ねんれい)差は15歳です。 小宮山弥太郎が15歳上です。 小宮山弥太郎は、すでに江戸時代の終わりには、山梨県の東郡(ひがしごおり)中心とあった田安(たやす)家の大工頭(だいくがしら)という要職に入った人物です。 この小宮山弥太郎が最初に大工の仕事を始めたのが15歳の時、というふうに記録に残っています。 島村半兵衛(しまむら・はんべえ)という人の弟子になって大工修行(しゅぎょう)を始めたのが、いちばん最初であると記録されています。
ところが驚(おどろ)いたのですが、14年(1843)に完成した時の棟札(むなふだ)が、並び棟梁というのですが地元の棟梁と下山大工の棟梁が、二人並んで書かれています。 下山大工の方が、松木運四郎、地元の大工が島村半兵衛(しまむら・はんべえ)です。 この建物は、島村半兵衛と松木運四郎が造った建物なのです。
15歳違(ちが)いということは、天保14年(1843)は小宮山弥太郎が15歳の年です。 ですから輝殷が生まれた年に、同じ現場に島村半兵衛に弟子入りした小宮山弥太郎がきていました。 小宮山弥太郎にとっては、運四郎がもう一人の棟梁になります。 師匠(ししょう)になるわけです。
しかもその師匠は、ちょうど子どもが生まれたので大喜びしているわけです。 小宮山弥太郎は輝殷を生まれた時から知っていた、ということが初めてわかりました。 これは今までわかっていなかったことです。
運四郎は、残された記録から、明治の4年(1871)から7年の間に亡くなっています。 ですから、もしかしたら運四郎は幸いなことに、自分が関(かか)わったお寺などが廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で取り壊(こわ)されるのを見ずに済んだかも知れません。 見なかった人たちは幸せだと思います。 それは下山大工にとっては、ものすごい被害(ひがい)であったと思います。 |