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第二展示室 藤村建築の名工
「松木輝殷建築指図展」

まつきてるしげけんちくさしずてん
[1.大工関連資料 | 2.建築資料と文化財指定 | 3.廃仏毀釈と洋風建築 | 4.方眼図面 | 5.大工図面]
[6.身延山久遠寺三門正面図 | 7.設計家としての松木輝殷 | 8.絵様とデザイン | 9.土木関係の仕事]
[10.松木家資料 | 11.父運四郎の板絵 | 12.輝殷を取り巻く人々 | 13.洋風建築への着手 | 14.石川家との繋がり]

9. 土木関係の仕事
 さらに松木輝殷が万能選手だったということがわかることがあります。 明治13年(1880)に明治天皇がきました。 その時天皇は馬車で行きたいということを言います。 そのために道路橋梁がすべて改修されます。 勝沼では?語彙集尾(かしお)橋という橋が架け替えられます。
柏尾橋 資料

柏尾橋 資料

柏尾橋 資料
<図40, 41, 42> 柏尾橋 資料
 この橋が、今まで写真を探していたのですが見つかっていませんでした。 ところが去年、県立図書館にある古い写真の中に、不明の橋として保存されていた写真、これが柏尾橋だということがわかり、そして今回この松木さんの資料の中から柏尾橋の図面が見つかったのです。

 さらに、その建築に関わる設計書から契約書まで見つかりました<図40〜42>。 その中のたった1枚の契約書が、山梨県の明治建築の研究者である植松先生(『山梨の洋風建築』の著者である植松光宏さん)を驚嘆させてしまった資料なのです。

 どういうことかと言うと、山梨県における明治建築を中心的に手がけた大工、県庁舎だとか、勧業製糸所だとか、県立のほとんどの施設を手がけたのが、?語彙集宮山弥太郎(こみやま・やたろう)という方です。 そしてもう一人の、学校建築を手がけた大工が、松木輝殷です。 もう一人そこに、土屋庄蔵(つちや・しょうぞう)という名前の方がいます。 これは現在重要文化財になっている?語彙集山梨郡役所を手がけた方です。
 この3人が、山梨県の洋風建築を作り上げた3人の大工と言われています。 相互の関係は、土屋庄蔵は左官ですが、小宮山がやる建築の左官の業務は全部、土屋庄蔵がやっていたことがわかっていますので、この二人の関係はわかっていたのですが、輝殷も含め3人が関係していたということが、この1枚の契約書の発見によって確認されたわけです。 船山橋 資料
 学校とは別に輝殷は、明治の洋風の技術を導入した土木構造物の設計もやっていたということが、これでわかりました。 実際に手がけたのは、柏尾橋と?語彙集船山(ふなやま)橋<図43〜45>、それから身延のもう一つの橋(?語彙集阿手古沢橋=あてござわ、下山)が見つかっています。 船山橋 資料
<図43, 44, 45> 船山橋 資料
船山橋 資料

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