9. 土木関係の仕事 |
さらに松木輝殷が万能選手だったということがわかることがあります。 明治13年(1880)に明治天皇がきました。 その時天皇は馬車で行きたいということを言います。 そのために道路橋梁がすべて改修されます。 勝沼では柏尾(かしお)橋という橋が架け替えられます。 |
<図40, 41, 42> 柏尾橋 資料 |
この橋が、今まで写真を探していたのですが見つかっていませんでした。 ところが去年、県立図書館にある古い写真の中に、不明の橋として保存されていた写真、これが柏尾橋だということがわかり、そして今回この松木さんの資料の中から柏尾橋の図面が見つかったのです。
さらに、その建築に関わる設計書から契約書まで見つかりました<図40〜42>。 その中のたった1枚の契約書が、山梨県の明治建築の研究者である植松先生(『山梨の洋風建築』の著者である植松光宏さん)を驚嘆させてしまった資料なのです。
どういうことかと言うと、山梨県における明治建築を中心的に手がけた大工、県庁舎だとか、勧業製糸所だとか、県立のほとんどの施設を手がけたのが、小宮山弥太郎(こみやま・やたろう)という方です。 そしてもう一人の、学校建築を手がけた大工が、松木輝殷です。 もう一人そこに、土屋庄蔵(つちや・しょうぞう)という名前の方がいます。 これは現在重要文化財になっている東山梨郡役所を手がけた方です。 |
この3人が、山梨県の洋風建築を作り上げた3人の大工と言われています。 相互の関係は、土屋庄蔵は左官ですが、小宮山がやる建築の左官の業務は全部、土屋庄蔵がやっていたことがわかっていますので、この二人の関係はわかっていたのですが、輝殷も含め3人が関係していたということが、この1枚の契約書の発見によって確認されたわけです。 |
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