こんなふうに、ありとあらゆる社寺仏閣(ぶっかく)をやりました。 こういう形で微細(びさい)な構造図まで描いています。 あくまでもこれは概略(がいりゃく)図です。
概略図から始まって、最終的には詳細(しょうさい)図に入って行くのですが、例えばこれなどは、明治27年(1894)に下山でも大火があったと思いますが、大和(やまと)村の景徳院(けいとくいん)も全焼します。 この1棟(とう)を残して全焼しました。
それに対する復興(ふっこう)計画が立案された時に、輝殷が計画全体図を考えます。 そしてこういうさまざまな図面を描(えがき)き出します。 最終的に五重塔(ごじゅうのとう)まで構想計画図を描きます。 でも実際にはこれは実現しませんでした、資金が集まらなくて。 こういうった資料が続々と続きます。
輝殷がその生涯(しょうがい)のいちばん最後に手がけた仕事が、この部分になります。 最晩年の仕事に北山の本門寺(ほんもんじ)がありますが、これが明治44年(1911)の1月です。 明治44年(1911)の9月に輝殷は亡(な)くなっていますので、本当に亡くなる時まで描き続けていました。 ですからその時は六十数歳という年で、この図面を描いています。 「若林市助(わかばやし・いちすけ)下絵図」と書いてあります。
これは弟子が、すでに輝殷の弟子がどんどん棟梁(とうりょう)として建物を任されているわけですが、設計と図面に関しては輝殷に相談をしています。 相談を受けた時に輝殷が、図面を描き直してやったり、設計を見直してやったりする作業をくり返します。 ですから晩年の松木輝殷というのは、建築家というよりも彫刻(ちょうこく)家であり、さらに設計者としての役割を担っていたという気がします。
さらにこれは現場における屋根の隅(すみ)の部分の組み、いちばん複雑な部分の組みを指示した図面になります。 神社仏閣に行くと普通(ふつう)、何気なく垂木(たるき)を見ていると思いますが、屋根がこう反っているところは垂木は四角ではありません。 屋根がこう反っていても、下からは全部まっすぐにこういうふうに見えるように造ってあります。
ですからこの隅の垂木は菱形(ひしがた)に刻まれているのです。真四角のように見えるのですが、あれは違(ちが)うのです。 視覚的には真四角に見えるように、実際の材料としては菱形に削(けず)る。 屋根にこう合わせて取り付けるから、まっすぐに見える。 どの部分ではどういう角度で、どう形を変えるかということを、全部指示しなければなりません。 それは屋根の勾配(こうばい)だとか、垂木の間隔(かんかく)によって変わる。 そういう内容を、こういった図面で指示しているわけです。
こういう指示図が膨大(ぼうだい)な量あって、おそらくそれらは、すべて現場の方に行ってしまったのではないでしょうか。 ここには現場に渡(わた)す前の下書きの資料が残っている、そういう状態だと思います。 |