13. 洋風学校建築への着手 |
明治6年(1873)に藤村紫朗(ふじむら・しろう)が山梨県に来て、洋風建築を作り始めさせました。 その命令を受けたのが小宮山弥太郎(こみやま・やたろう)です。 明治7年(1874)2月に最初の洋風建築の2つの学校を、甲府(こうふ)に完成させました。 梁木(やなぎ)学校と琢美(たくみ)学校です。
明治7年(1874)という年には、もう一つ大きな変化があります。 栄吉(えいきち)が生まれた年です。 お父さんは亡(な)くなってしまう、自分が当主(とうしゅ)にならなければならない、しかも30代になってから初めての子である栄吉が授かったんです。 家を支えなければならないというのは無論(むろん)のこと、自分にとっても、今までも棟梁(とうりょう)ではあったかも知れませんが、一家を支えるべき時期にきたのです。 |
<図49> 日川学正門 拡大コピー |
一大決断をするのですが、仕事がない、なおかつ子どもが生まれた、そのころに小宮山弥太郎は次から次へと洋風建築を、県令(けんれい)の命令によって造らなければならない。 輝殷がいちばん最初に手がけたのは、山梨市にある日川(ひかわ)学校です<図49>。 日川というところは、田安(たやす)の陣屋(じんや)があったところです。 |
その日川の村で田安陣屋の修理を、建築を手がけていたのが小宮山弥太郎でした。 田安の陣屋の周りでは皆(みな)、小宮山弥太郎を知っているわけです。 そこで小学校を造ろうとしたので、必然的にいちばん最初に洋風建築を手がけている小宮山弥太郎に、自分のところの村をやって欲しいという声がかかるはずです。 |
ところが小宮山弥太郎は、とにかく県庁関係の仕事で手いっぱいでした。 勧業製糸場(かんぎょうせいしじょう)を造らなければいけない。 巨大(きょだい)な、初めての製糸工場を洋風建築で造る、それから裁判所を造る、県庁舎を造る、県令邸(てい)を造るという仕事を軒並(のきな)みやっていました。
もう手いっぱいの状態だったので、そこですでにその才量を知っていた輝殷に声をかけたのではないかと思います。 輝殷にしてみれば、自分の人生の中の転機を迎(むか)えていました。 そこに小宮山弥太郎が、洋風建築を手伝ってくれないか、と声をかけたのではないでしょうか。 輝殷は一大決心をして、洋風建築を始めることになりました。 |
<図50> 勝沼学校 平面図
<図51> 勝沼学校 増築校舎 |
ところが始めてみると、次から次へと新しい建築のデザインが頭の中に浮(う)かんで、それを次から次へと手がけて行く。 山梨県内ではたくさん洋風建築が造られましたが、ほとんどの場合、一人の大工が1件手がける程度で終わっています。 ところが輝殷の場合はそういった力量を持っていたために、洋風建築を一つ手がけ始めたらすぐに、ここもやって欲しい、これもやって欲しいと、次から次へと声がかかりました。
最も多かった時には、輝殷は4件を同時に建設しています。 勝沼(かつぬま)学校<図50, 51>、千野(ちの)学校<図52>、錦生(にしきせい)学校<図53>、韮崎(にらさき)学校<図54>です。 4校にそれぞれ自分の中心となる弟子を置いて、さらに下山大工の人たちに応援(おうえん)してもらい同時にやっているのです。
どうやってこれを移動していたのでしょうか。 一つは塩山(えんざん)市(=現甲州市塩山)の千野(ちの)ですから、塩ノ山(しおのやま)の裏、勝沼(かつぬま)で1校、それから韮崎(にらさき)、この間をこうやりながら、すっ飛び回りながら建設したのです。 のちに膝(ひざ)を傷めて、その療養(りょうよう)をするのが明治19年(1886)になってのことですが、その時の過労がどうも原因なのではないかと思うのですが。
そうやって洋風建築の大工としての、今まで持っていた素養(そよう)が一気にだーんと爆発(ばくはつ)しました。 気がついたら、現代の国のレベルで評価しても重文になる建築を造り上げていたんです。 |
<図52> 千野学校
<図53> 錦生学校
<図54> 韮崎学校 |