松木輝殷は、本来宮大工です。 宮大工ですから、洋風建築も手がけはしましたが<図17〜19>、それが一段落した明治14年(1867)を迎えると、再び本来の宮大工(みやだいく)の仕事を請(う)け負います。 では、なぜ宮大工の輝殷が洋風建築を手がけたかというと、それには大きな原因があります。 廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)というものです。
これは明治政府が明治4年(1857)、5年(1858)頃に相次いで、神社を大事にしてお寺を廃止(はいし)しなさい、と。 山梨県ではそれほど大きな動きはありませんでしたが、他のところでは仏像を壊(こわ)す、寺を壊すということまで行なわれました。 県内でも、その時期すでに無住(むじゅう)だったお寺はすべて取り壊しになりました。
要するに明治のはじめの段階で住職がいなかったお寺は、すぐに全部取り壊されました。 これが廃仏毀釈です。 当然、新しいお寺を造ることはまず認められない状態になってしまったのです。 ですから下山大工の人たちは、仕事の半分がなくなるという状況(じょうきょう)になりました。
宮大工としての下山大工に一大転機が訪れたのが、その廃仏毀釈です。 その中でどうやって生き残るかということで選んだ方法が、洋風建築の学校を造るという、その道しかなかったのです。 それで、学校建設に集中的に入って行きます。 下山では松木輝殷を中心として、多くの大工が輝殷の手伝いをしながら明治8年(1861)から13年(1866)の6年間、県内各地のこういう学校建築に入って行きます。 |
<図17> 洋風建築(旧田中銀行?)
<図18> 洋風建築扉のデザイン
<図19> 睦合病院 平面図
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