2. 建築資料との文化財指定 |
<図9, 10> 建築資料 |
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山梨県の洋風建築で、建設時における帳簿(ちょうぼ)類が残っていることが確認されているものは、1件しかありません。 都留(つる)の、吉田の方ですが、瑞穂(みずほ)学校というところの1件だけです。 |
建設時における図面が残っているものとなると、ほとんどありません。 去年、甲府(こうふ)に造られた舞鶴館(ぶかくかん)という武道場の図面が発見されましたが、松木さんの資料を除いてはそれが唯一のものです。
睦沢(むつざわ)学校は有名ですし、重文指定になっていますが、建設時における記録はまったくありませんでした。 何年にどういう経過で造られたものかをのちに書いたものが、残っているだけでした。 |
旧睦沢学校(藤村記念館) |
<図11> 睦沢学校 資料 |
今回ここで、その睦沢学校の建設における大工の支払い帳だとか、人工に関わる資料が見つかりました<図11>。 これは重文指定の、追加指定となる資料になります。 重文指定の根拠(こんきょ)になるのはこの部分です。 これも、今まではまったく紹介(しょうかい)されていない資料です。 |
さらにそれ以外の輝殷の手がけた学校、今まで10校と言われていましたが、藤村式建築を除けばさらに2校増え12校です<図12〜15>。 明治時代、どういう具合でこういう建築が作り上げられたのかは、ほとんどわかっていないのが実情です。 その中で松木さんの資料からは、洋風建築を造った県とすれば、最も多いような数字が出てくるのです。 |
<図12> 日川学校 資料 |
<図13> 御代咲(みよさき)学校 資料 |
山形と山梨の2県は、ちょうどその県令の性格が非常に似ており、洋風建築の勧(すす)めをしたところです。 都会、東京とか横浜、神戸(こうべ)等を除けば、地方の段階でこれほど多くの洋風建築を建てたのは、この2県くらいしかありません。 その中でも現在残っているのはわずか6棟(とう)です。 6棟の中で明確な記録が残っているものが、実はもう一つあります。 それは、こういう大工資料とは別な資料、棟札(むなふだ)という資料です。
すでに山梨県からは移動してしまいましたが、明治村にある東山梨郡役所(ひがしやまなしぐんやくしょ)、これは経過の記録がほとんど何も残っていないのですが、解体時に棟札が見つかりました。 その棟札によって大工が誰(だれ)か、棟梁(とうりょう)が誰であったか、左官(さかん)が誰であったかもわかります。 これは大工が手元に残す資料ではなく、建物に残すものです。 それが見つかった時に東山梨郡役所も重要文化財になりました。 |
<図14> 下山尋常高等小学校
<図15> 古関尋常高等小学校 |
6棟の中に、松木輝殷が手がけた建物が1棟だけ残っています。 今、重要文化財という状態です。 |