松木輝殷建築指図展 トップページ > 松木輝殷建築指図展 > 「松木輝殷建築指図展」

第二展示室 藤村建築の名工
「松木輝殷建築指図展」

まつきてるしげけんちくさしずてん
[1.大工関連資料 | 2.建築資料と文化財指定 | 3.廃仏毀釈と洋風建築 | 4.方眼図面 | 5.大工図面]
[6.身延山久遠寺三門正面図 | 7.設計家としての松木輝殷 | 8.絵様とデザイン | 9.土木関係の仕事]
[10.松木家資料 | 11.父運四郎の板絵 | 12.輝殷を取り巻く人々 | 13.洋風建築への着手 | 14.石川家との繋がり]

10. 松木家資料
 では松木輝殷がどうやって育ってきのたか、これを松木家の資料は如実(にょじつ)に表してくれています。 松木家で見つかった資料は、大きく江戸時代のもの、明治時代のもの、大正・昭和のものと分かれます。

 松木さんの家そのもので見て行くと、6代分の資料が出てきました。 初代の松木重左衛門(じゅうざえもん)、二代目重左衛門、運四郎(うんしろう)、輝殷、栄吉(えいきち)、そして光正(てるまさ)、の6代にわたる建築資料が見つかりました。 ですから、江戸時代から昭和にわたるまでの建築図面があるわけです。 →松木家系図

 もう一つ重要な発見があります。 輝殷は大工ですから、建築を手がける時に家を離(はな)れ飯場(はんば)に入ります。 そうすると家族との間で書簡(しょかん)の交信をしないと連絡が取れません。 輝殷は、家族から受け取った手紙、家族に送った手紙も含(ふく)め、膨大(ぼうだい)な書簡を保管しています。

 さらに大工ですから当然、施主(せしゅ)との間のやり取りも生じることになります。 これも全部保存されているのです。

 病院に入った時の診断(しんだん)書、いちばん驚(おどろ)いたのは、輝殷が富士(ふじ)で亡(な)くなって、そこで弟子の若林(わかばやし)がとりあえず火葬(かそう)にしなければならないということで、火葬にした時の許可証まであるのです。 松木さんのお宅というのはすごいです。 全部保存してあるのです。

 松木輝殷が一生涯(いっしょうがい)に手がけた仕事、今回のこの資料だとか図面、建設に関わった書類等、それから書簡から今のところわかっている、輝殷が手がけた建築の年表があります。 これを見るとちょうど明治の18年(1885)から24年(1891)の間がぽこんと空いています。 ここに一つだけ、資料が最近見つかりました。 20年(1887)のこの1件は、ただ相談を受けたということで、18年(1885)から24年(1891)の6年間にわたる仕事がわかりませんでした。

 わからなくて困っていたのですが、明治19年(1886)に膝(ひざ)を傷めてしまい歩行不能になった時の診断書が見つかったのです。 それでこの間は、おそらく療養(りょうよう)状態に入っていたということがわかりました。

 そこまでわかるのです。 とにかく輝殷に関わる資料だけでも驚くべきものを持っています。

前のページへ  次のページへ  松木輝殷トップページにもどる