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第二展示室 藤村建築の名工
「松木輝殷建築指図展」

まつきてるしげけんちくさしずてん
[1.大工関連資料 | 2.建築資料と文化財指定 | 3.廃仏毀釈と洋風建築 | 4.方眼図面 | 5.大工図面]
[6.身延山久遠寺三門正面図 | 7.設計家としての松木輝殷 | 8.絵様とデザイン | 9.土木関係の仕事]
[10.松木家資料 | 11.父運四郎の板絵 | 12.輝殷を取り巻く人々 | 13.洋風建築への着手 | 14.石川家との繋がり]

4. 方眼図面

 この図面、よく見て欲しいのですが、見て気がつくでしょうか<図20>。 今では当たり前のことですが、図面の下に方眼(ほうがん)があるのがわかりますか。 これが、輝殷が明治建築を手がける時に使った図面の方法です。
竜王学校 図面
<図20> ?語彙集竜王学校
 江戸(えど)時代までの図面はもっと大きかったのですが、明治時代になると明治政府が一つ問題点を出します。 書類の規格を決めたことです。 江戸時代と違(ちが)うことは罫紙(けいし)を使い、こういった罫線(けいせん)の入った和紙に二つ折りにして、全部の書類の大きさを整えるという方法を選びました。

 学校建築も、藤村紫朗(ふじむら・しろう)という?語彙集令が明治6年(1873)に赴任(ふにん)してから、洋風で造るようにと勧(すす)めます。 学校は県庁の許可を取らないと作れなかったので、各村では学校を作る許可を取るために書類が出されました。 輝殷が描いたこの学校の図面はその書類に添付(てんぷ)するためのものですから、そのサイズが小さくなりました。
 しかも当時、県庁では方眼の入った図面が使われていました。 ですからそれに合わせるために、方眼の入った図面で設計をするようになりました。 そして縮尺を明確に示すようになりました。 方眼図というものが出てきました。 そのサイズがすべて、あの書類ですね、この用紙に、折り込(こ)んで入る大きさに描(えが)き出さなければならない。 そのために輝殷は、図面だけでその建物が、どういうものができるかという雰囲気(ふんいき)がわかるように描かなければならなかったのです。 非常に微細(びさい)な図面を描きました。

 そこにある二つの図面を5倍以上に拡大すると、こうなります<図21, 22>。 これだけ拡大しても見ごたえのある図面です。 その中に本当に細かい線で描き込まれています。 大きさが決まっているので、その中に、どういうものを造ろうとしているのかがわかるように、本当に微細な表現をするのです。 これが輝殷の、のちの『松木図』というものの原点です。 輝殷は非常に微細な図面を描くという技量を、ここで身につけます。
千野学校 拡大コピー
<図21> ?語彙集千野学校 拡大コピー

竜王学校 拡大コピー
<図22> ?語彙集韮崎学校 拡大コピー

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