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木喰上人入門 |
もくじきしょうにんにゅうもん |
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取り壊された四国堂 このあと「身延に遺る木喰上人の作品」のページで触れますが、木喰さんが最後にふるさと丸畑に戻(もど)ってきたとき、地元の人たちに熱心に頼まれ、四国堂(しこくどう)という小さなお堂を建て、八十八体の仏像を刻んで納(おさ)めました。 享和2(1802)年のことです。 しかし、年月の経過とともに、人々の間で信仰心(しんこうしん)が薄れてしまったことや、四国堂の建物や中に安置された本尊の所有をめぐっての仲たがいが起きたことなど、いろいろなことが重なって大正8(1919)年、ついに四国堂が取り壊されてしまったのです。 木喰さんの造った仏像も建物に使われていた木材も売り払われ、あちこちへと散り散りになって行きました。 |
木喰仏をさがせ!~一気に進んだ木喰研究~ 柳宗悦は小宮山清三から木喰仏のひとつを譲(ゆず)り受け、ますますその魅力にはまって、ものすごい勢いで木喰さんの研究を始めました。 まずは丸畑を訪れ、遺品(いひん)の文書(もんじょ)類を研究し、日本各地に遺る木喰さんの痕跡(こんせき)を探して廻(まわ)り、わずか2~3年のうちに研究成果をまとめたものを発行しました。 小宮山清三を代表に、木喰五行研究会も発足し、甲府や東京で盛大(せいだい)な展覧会も開かれました。 柳宗悦によって紹介された木喰さんの仏像は、たくさんの人々を魅了しました。 ちょっとした木喰仏ブームがおこったのです。 大正という時代の風潮(ふうちょう)が、木喰さんの仏像の素朴(そぼく)さや庶民(しょみん)性を理解し、求めたのかも知れません。 また、全国各地に眠る木喰仏を次々に発見することに、ドキドキわくわくした気持ちを味わう楽しさもあったのでしょう、木喰仏がいろいろな場所で確認されたのです。 丸畑の四国堂が解体され、仏像が散り散りになってしまったことは残念なできごとでしたが、散り散りになったことによって木喰仏は柳宗悦と出会ったのです。 柳宗悦の熱心な研究がなければ、木喰さんに今のような全国区の知名度の高さはなかったでしょう。 その研究の成果は、およそ80年が経った今でもなお、木喰さんについて調べたり語ったりするときの、大切な土台になっているのです。 柳宗悦は、すっかり木喰仏に心を奪われていたので、ときにははっきりとはわからないことについて実際よりも美化した空想で補(おぎな)ったりもしたでしょう。 もちろん、そんなことを差し引いても、柳宗悦の業績(ぎょうせき)の偉大さは疑いのないことです。 |
【参考文献・資料】 『下部町誌』(下部町誌編纂委員会) 『新装・柳宗悦全集9 木喰上人』(日本民藝協会・春秋社) 『木喰の旅』(山梨日日新聞社) 『郷土史にかがやく人々 集合編(Ⅱ)(Ⅲ)』(青少年のための山梨県民会議) 『山梨百科事典 増補改訂版』 山梨日日新聞社) 日本民藝館WEBサイト |