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下山と下山大工の歴史

しもやまとしもやまだいくのれきし
[1. 下山大工についての言い伝え | 2. いつ、どうして下山大工が生まれたか? | 3. 穴山氏の時代の下山大工]
[4. 江戸時代の下山大工 | 5. 下山大工の全盛期と人数の記録 | 6. 明治から現代まで]

6. 明治から現代まで
 明治維新(いしん)により260年あまり続いた幕藩(ばくはん)体制が崩壊(ほうかい)すると、わが国に近代化の波が押し寄せます。 宗教の面では神道国教化政策がとられ、仏教を排斥(はいせき)しようする?語彙集仏毀釈(はいぶつきしゃく)という運動が興(おこ)りました。 この廃仏毀釈によって、日本の各地でお寺や仏像は壊され、経文(きょうもん)なども焼き捨てられてしまったのです。
 日蓮宗(にちれんしゅう)の総本山(そうほんざん)久遠寺(くおんじ)を抱(いだ)く身延の地とても、その影響(えいきょう)をまったく受けないわけにはいかなかったはずです。 そうでなくても下山大工の活動の範囲は広く、河内(かわうち)地方だけでなく山梨県全体、さらには県外にまで及(およ)んでいました。 少なくとも明治期の最初のうちは、新たに寺院が建築されることはほとんどなかったでしょう。 しかし何よりも、廃仏毀釈運動によって、江戸時代以前の下山大工の作品の数々が失われてしまったのでしょうから、たいへん大きな損失(そんしつ)であったことに違いはありません。

 この時代には、甲斐(かい)の国における役引(やくびき)大工のポストも廃止(はいし)になりました。 下山大工では?語彙集山梅雪(あなやま・ばいせつ)の時代から石川久左衛門(いしかわ・きゅうざえもん)・竹下幸内(たけした・こうない)の両家に役引職が与えられていましたが、これも廃止されました。 両家の下山大工における支配権はすでに職業出入→職業出入〈1〉)の決着をもって消滅しており、これで名実ともに特権がなくなったわけです。

 明治のはじめには文明開化も進みました。 明治6年(1873)に在任した山梨?語彙集令(けんれい)?語彙集村紫朗(ふじむら・しろう)は、公共建築物の建築にあたり、西洋風の様式を奨励(しょうれい)しました。 彼の14年あまりの在任期間に勧業製糸場(かんぎょうせいしじょう)、郡役所、学校など多くの洋風建築の建物が造られました。 この時代の洋風建築のことを?語彙集洋風(ぎようふう)建築と呼びますが、山梨ではこれを推進(すいしん)した県令の名を冠(かん)した?語彙集村式建築という呼び名が今日でも使われています。
 下山大工のなかにも、この藤村式の学校建築に携(たずさ)わった者もいました。 現在でも保存されている建物のひとつに?語彙集睦沢(むつざわ)学校、現在の甲斐市(旧中巨摩郡敷島町)に松木輝殷(まつき・てるしげ)が造ったものがあります。 現在では甲府市の武田神社境内(けいだい)に移築復元され、藤村記念館として使われています。 また?語彙集舂米(つきよね)学校は明治9(1876)年、松木高造(まつき・こうぞう)の作です。 増穂町舂米にあり、現在は町立民俗資料館です。 旧睦沢学校は国の重要文化財、旧舂米学校は山梨県指定文化財と、どちらも大切な文化財としての指定をされています。

 大正〜昭和〜平成と年号は変わり、今では江戸時代のころのような集団としての「下山大工」は存在しなくなりました。 けれども、だからと言って、下山大工の伝統・技術が途絶(とだ)えてしまったわけではありません。 今もなお下山の地で活動している大工さんも数多くいますし、近隣の市町村、あるいは遠く離れた土地で血脈(けつみゃく)をつないでいる子孫の方たちもいます。 過去の歴史が連綿(れんめん)と続いているだけでなく、さらなる歴史も作り続けられているのです。 
(「下山と下山大工の歴史」終わり)

【参考文献・資料】

『身延町誌』(身延町誌編纂委員会) 『大工彫刻〜社寺装飾のフォークロア』(INAXギャラリー企画委員会) 『甲斐路』(山梨郷土研究会) 『峡南の郷土』(峡南郷土研究会) 『下山甚句句集』(下山甚句保存会) 『山梨百科事典 増補改訂版』(山梨日日新聞社)

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