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下山大工の歴史の中の
大きなできごと


しもやまだいくのれきしのなかの
おおきなできごと


1. 三郡出入 〈1〉
 宝永(ほうえい)元年(1704)から天明(てんめい)元年(1781)にわたる80年近く、下山大工がふたつの派に分かれて激しく争いました。 これを三郡出入(さんぐんでいり)と呼びます。 三郡とは、山梨県内の当時の3つの郡、巨摩(こま)、八代(やつしろ)、山梨のことで(→「下山大工のこと・2.甲斐の国」)、?語彙集入は訴訟(そしょう)のことを言います。 三郡での大工仕事の支配権を主張する側と、それに反対する側との争いでした。

 ことのはじまりは宝永元年(1704)、甲府(こうふ)の藩主(はんしゅ)だった徳川綱豊(とくがわ・つなとよ)が江戸(えど)に移り、芝(しば)というところに白銀御殿(しろがねごてん)を造った時のことでした。 綱豊は、のちの六代将軍(しょうぐん)家宣(いえのぶ)です。 下山大工の石川久左衛門(いしかわ・きゅうざえもん)と石川五左衛門(いしかわ・ござえもん)が、この御殿を造る契約(けいやく)を取ろうとして競い合いました。
 石川久左衛門は、石川弥左衛門(いしかわ・やざえもん)の子孫です。 石川五左衛門は、日興上人(にっこうしょうにん)とともに身延を離れ、大石寺(たいせきじ)を建てた大工さんの子孫です。 石川久左衛門も石川五左衛門も、もともとは同じ一族と考えられています。 両方の家の墓地は下山荒町(あらまち)の常福寺(じょうふくじ)にあり、どちらの家の家紋(かもん)も五本骨扇(ほねおうぎ)だからです。

 この時の争いでは石川五左衛門が勝ち、白銀御殿を完成させましたが、ふたつの石川家の対立は、このあともずっと、何代(なんだい)にもわたって続きます。

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