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下山大工のこと

しもやまだいくのこと
[1. 下山の成り立ち | 2. 甲斐の国 | 3. 下山大工]

2. 甲斐(かい)の国
三郡・河内の地図 甲斐(かい)というのは、今の山梨県全体の昔の呼び名です。 甲斐の国は大きく東部の郡内(ぐんない)と、甲府(こうふ)盆地(ぼんち)を中心とする国中(くになか)の二つに分かれます。 郡内と国中の間には南北に、笹子(ささご)峠(とうげ)や御坂(みさか)峠、大菩薩(だいぼさつ)峠をふくむ山々の連なりがあり、地理的に分かれているのです。

 国中は、山梨八代(やつしろ)・巨摩(こま)の3つの郡から成り立っていました。 この3つの郡を併(あわ)せて「三郡(さんぐん)」と呼んでいます。 下山村はその三郡のうちの巨摩郡に含まれます。

 相次(あいつ)ぐ平成の合併(がっぺい)により新しい市や町が誕生し、県内の市町村のようすも大きく変わりました。 多くの町村が市に変わったり、違う郡の町村同士が合併したりしたことに伴(ともな)い、昔からの郡の境界もわかりにくくなりました。
 合併前までは、昔の郡のおおよその境界が受け継(つ)がれていました。 巨摩郡が北巨摩・中巨摩・南巨摩の三つの郡に、山梨郡が東山梨郡に、八代郡が東八代・西八代の二つ、都留郡は北都留・南都留に、という具合です。
 これらの郡部(ぐんぶ)に市部(しぶ)を加えると、昔の郡のだいたいの輪郭(りんかく)がわかりました。 ただし、巨摩郡と八代郡は富士川を境に分けられていたため、身延町や南部(なんぶ)町の富士川東岸(とうがん)は八代郡に属(ぞく)していました。

 下山村が属した地域の呼び方にはほかに、河内(かわうち)という名前があります。 これは近世になって始まった、「?語彙集筋二領(くすじにりょう)」という区分によるものです。 九筋は甲府盆地の周辺、二領は郡内領と河内領のことを言います。

 1800年代のはじめ(江戸時代の後半)に編纂(へんさん)された『?語彙集斐国誌(かいこくし)』によれば、「かわうち」という名前は「かわおち(河落)」から変化したもののようです。
 今でも山梨の代表的な川である笛吹(ふえふき)川と釜無(かまなし)川は、増穂(ますほ)町と鰍沢(かじかざわ)町の境のあたりでひとつに合わさり、富士川となって下山の東を通り、南へと流れて行きます。 「河落」というのは 甲斐の国を広く流れるこれらの川が合わさるところ、を意味するということです。
 つまり河内領は富士川の谷に沿った地域のことで、ちょうど今でいう峡南(きょうなん)にほぼ一致(いっち)します。 富士川東岸を東河内領、西岸(せいがん)を西河内領と呼びました。 下山は西河内領に含まれ、河内領(りょう)全体の中心に位置していました。

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