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下山大工のこと

しもやまだいくのこと
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3. 下山大工
 下山大工というのは、その名の通り、下山地区に住んでいた大工さんの集団で、鎌倉(かまくら)時代の早い時期にはすでに活動を始めていたと考えられています。 13世紀のはじめごろのことですから、およそ800年もの歴史があるのです。

 下山は、日蓮宗(にちれんしゅう)の総本山(そうほんざん)である身延山久遠寺(くおんじ)のふもとにあります。 身延山の存在が下山大工の発展に大きな影響(えいきょう)を与(あた)えたと言われ、それは間違(まちが)いないことでしょう。
 ところが不思議なことに、実際には、身延山に関係のある建物で下山大工が関わったものは、思いのほか多くはないようです。 身延山の建物の造営に携(たずさ)わってきた大工さんの系列は、基本的に、下山大工の系列とは別のものなのです。

 下山に伝わる『下山甚句(じんく)』のなかに、次のような一節があります。
♪下山焼けた二度焼けた
   三度目にゃ ソレ
  役場も焼けて気の毒 ドッコイ
    役場も焼けて気の毒
 こう歌われているように下山は、昔は火事がよく起きたところです。 明治(めいじ)時代には大火災が2年続けて発生し、大水害もありました。 そのため、下山大工に関する資料もあまり残っていないと考えられてきました。 でも、今でもまだまだ、人知れず眠っているものが下山にも、下山以外にも、たくさんあるかも知れません。

 下山大工に関心がある人は、身延町内にも、また町外にも大勢いらっしゃることでしょう。 下山大工に興味を持つ人が少しずつ増えることによって、今まで知られていなかった資料も少しずつ見つかって行くかも知れないと考えると、何だかワクワクしてきませんか?

 下山大工がどのように生まれ、発展して行ったのか? 長い歴史のなかには、どのようなできごとがあったのか? 彼らが私たち遺(のこ)してくれたものは何か? それでは、ひとつずつ見て行きましょう。
(「下山大工のこと」終わり)

【参考文献・資料】

『身延町誌』(身延町誌編纂委員会) 『大工彫刻〜社寺装飾のフォークロア』(INAXギャラリー企画委員会) 『甲斐路』(山梨郷土研究会) 『峡南の郷土』(峡南郷土研究会) 『下山甚句句集』(下山甚句保存会) 『山梨百科事典 増補改訂版』 山梨日日新聞社) 伝匠舎WEBサイト「社寺建築ページ

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