下山大工

下山甚句  しもやまじんく
下山甚句保存会編 『下山甚句句集』
「下山甚句・句集の編集にあたって」より(深沢幸雄さん)
 下山甚句は、750年の歴史と伝統のある身延山の宗教歌が元唄と思われる。
 「甲斐国志」によれば下山氏は甲斐源氏で、加賀美遠光の長子、秋山光朝の子、下山小太郎光重が下山氏の祖であり、その子下山兵庫介光基が日蓮に帰依してその屋敷を寺(本国寺)としており弘安6年(1283)に没したとあり、本年(平成15年)が七百二十忌に当たる。  これをみると、下山の歴史は身延山と共に在ったともいえる。
  (中略)
 下山甚句の起源については、諸説があるが身延山の宗教歌「和讃(わさん)」等が元唄であるという点では、一致している。
 下山甚句は身延山の宗教歌が変化し、子守歌としても歌われ、やがて夏の夜を彩る盆踊り唄として広く国中一円に広まっていった。  そしてその地域の名を冠したり地域の出来事や、風俗を歌い足している。
  (中略)
 昔から甲斐には民謡が少ないといわれている。 特に山梨で生まれた歌が全国で歌われた例は「新民謡」の「武田節」ぐらいであろう。  下山甚句は江戸時代に下山で生まれ、下山大工によって明和5年(235年前)江戸に運ばれ「コチャエ節」として全国を風靡(ふうび)し、今や日本を代表するメロディ「お江戸日本橋」となった。
 下山甚句は県民が全国に誇れる山梨の「伝統民謡」であり貴重な文化遺産である。  しかし、時代の趨勢(すうせい)で正調の下山甚句を歌い踊る人はめっきり減っている。(後略)



130を越える下山甚句の詞には、下山大工を唄ったものがいくつかある。

次の句は、松木輝殷の父運四郎を唄う。

雷さんは天で鳴る
  荒町の ソレ
 運四郎さんは地で鳴る ドッコイ  
   運四郎さんは地で鳴る
 下山大工は、全盛期300名を数えた。
 松木運四郎は棟梁の中でも最有力者であった。 下山甚句に歌われている様に、雷さんは天で轟き、運四郎さんは地で名を轟かせた。
 その子輝殷も父に劣らぬ名棟梁であった。 睦沢学校の外9校を建てている。 また彫刻でも卓越した技術を持っていた。

また、次のものは石川政五郎を唄っている。

下山大工政五郎
  善光寺の ソレ
 大金堂は撞木棟 ドッコイ        
   大金堂は撞木棟
 金堂は日本有数の大建築物で、着工から31年を要し、寛政8年に完成した。(善光寺普請の異名)
 棟梁は下山大工石川政五郎。
 山門はそれより約30年前に完成。  棟梁は下山大工石川久佐衛門である。
 共に国の重要文化財である。

よくでた御岳神楽殿
  下山の ソレ
 番匠さんと江戸の車力で ドッコイ
   番匠さんと江戸の車力で
 御岳金桜神社の神楽殿は、下山大工石川政五郎、七郎左エ門の父子二代によって享和2年(1802年)に完成した。 父政五郎は造営中に急死した。
 子七郎左エ門は造営大工必読の書とされる「匠家雛形増補初心伝」を文化9年と明治になってからも出版している。

その他、下山大工を題材にしたものには次のようなものなどもある。
下山番匠 政五郎
  お御岳の ソレ
 お神楽殿は八棟 ドッコイ    
   お神楽殿は八棟
番匠じやあ飯は喰えんから    
  あしたから ソレ
 東海道で雲助 ドッコイ
   東海道で雲助
(歌詞、解説はすべて下山甚句保存会編集『下山甚句句集』によるもの)

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