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下山大工のこと

しもやまだいくのこと
[1. 下山の成り立ち | 2. 甲斐の国 | 3. 下山大工]

1. 下山の成り立ち
下山の位置 平成16(2004)年9月13日、山梨県西八代(にしやつしろ)郡の下部(しもべ)町と南巨摩(みなみこま)郡の中富(なかとみ)町・身延(みのぶ)町の三町が合併(がっぺい)し、新しい身延町(みのぶちょう)が誕生しました。 下山(しもやま)は新身延町のちょうど中ほどに位置した地区で、現在はおよそ500戸(こ)、1500人強(きょう)の住民が暮らしています(2004年8月現在)。

 下山は、昭和30(1955)年の合併で旧身延町になるまでは、下山村という名前の村でした。 明治(めいじ)時代の中ごろには、福居(ふくい)村と呼ばれている時期もありました。

 下山村には室町(むろまち)時代に、南部(なんぶ)氏の一族である下山氏が住みつき、その後、武田(たけだ)氏一族の穴山(あなやま)が住むようになりました。 そのため、下山は城下町として栄えました。
 江戸(えど)時代のはじめには、徳川家康(とくがわ・いえやす)の命(めい)を請(う)けた?語彙集倉了以(すみのくら・りょうい)によって、富士川(ふじかわ)舟運(しゅううん)が始まります。 舟(ふね)による人の行き来が盛んになるに連れ、下山は、遠くから身延山(みのぶさん)にやってくる参詣(さんけい)客が寝泊(ねとま)りする「宿(しゅく)」として発展して行きました。

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