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下山大工の歴史の中の
大きなできごと


しもやまだいくのれきしのなかの
おおきなできごと


1. 三郡出入 〈2〉
 50年ほどのちの宝暦(ほうれき)5年(1755)のことです。 そのころの下山では、竹下幸内(たけした・こうない)と石川久左衛門(いしかわ・きゅうざえもん)が大工をまとめ、支配していました。 幸内の祖先は竹下源三左衛門(たけした・げんぞうざえもん)、久左衛門の祖先は同じ名前の石川久左衛門です。 ともに?語彙集山梅雪(あなやま・ばいせつ)の時代から特別扱(あつか)いされて来た家系で、江戸(えど)時代になってからは役引(やくびき)大工としての権威(けんい)を誇(ほこ)っていました。
 ところが、この竹下・石川派の支配から抜(ぬ)け出したいと考える大工たちが出て来ました。 下山村内(そんない)の40人の大工が行動を起こします。 儀右衛門(ぎえもん)、勘兵衛(かんべえ)、作之丞(さくのじょう)、権兵衛(ごんべえ)の4人が中心になって、病気だとかほかに用事があるだとかの理由をつけて、その年1月の?語彙集子講(たいしこう)の集まりの日に欠席したのです。

 太子講というのは聖徳太子(しょうとくたいし)をまつる集まりのことで、江戸時代になってからは大工さんたちの間で盛んになりました。 太子講では大工仕事に関することだけでなく生活態度のことなど、いろいろな取り決めが定められていました。 大工の集団をひとつにまとめ、お互(たが)いが助け合う、組合のような集まりが太子講と言えます。 しかし、このころの下山大工の集団では、竹下家と石川家がいつでも絶対の力を持っていたのです。
 ですから、下山では太子講に参加している者は竹下・石川家の支配に従うこと、これが当たり前だったので、支配に従わずに太子講に参加するわけにはいきませんでした。 しかし、太子講に参加しないで仕事をするのは難しいことでした。 そこで、幸内・久左衛門に反対する大工たちは、まとまった人数を集め、自分たちだけの太子講を作りました。 そのため宝暦5年(1755)1月の、幸内・久左衛門側の太子講の集まりには出席しなかったのです。

 幸内・久左衛門側は、「反対派の行動は大工として正しくない」ということを、甲府(こうふ)勤番(きんばん)に訴(うった)えます。 幸内・久左衛門側の人数は82人で、140〜50人いた下山大工の数の半分以上を占(し)めていました。 訴えの内容は、「4人の主謀者(しゅぼうしゃ)の大工道具を差し押(お)さえること」「4人には仕事をさせないよう国中(くになか)にお触(ふ)れを出すこと」でした。 これによって、反対派の人たちの勢いを押さえようとしたのです。
 反対派も行動を起こします。 甲府上飯田(かみいいだ)役所に訴えました。 しかし役所は、「大工の仲間うちのことの解決はできない」と言って、どちらの訴えも受け付けませんでした。 このあとも、幸内・久左衛門派も反対派も、別の役所へ訴えたようですが、どのような結果が出たかはよくわかっていません。 いずれにしても、ここまでの争いはまだ、下山大工の仲間うちでのものでした。

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