しばらく時が過ぎて安永(あんえい)年間(1772〜80年)になると、問題は下山だけでなく、三郡(さんぐん)にまでおよぶものに広がりました。 安永7年(1778)、甲府(こうふ)城内(じょうない)の修復が計画された時に幸内(こうない)と久左衛門(きゅうざえもん)は、自分たちの家が昔から城内の仕事をしてきたから今回の仕事もさせて欲しいと願い出て、それが認められました。
ところが反対派も甲府の町方(まちかた)大工も、このことに異議を唱(とな)えます。 城内の仕事をして来たのは何も幸内と久左衛門の家系だけなわけではないし、今ここで幸内・久左衛門が城内の仕事を請(う)け負えば、巨摩(こま)・八代(やつしろ)・山梨の三郡全体の棟梁(とうりょう)になろうとするに違(ちが)いない、と恐(おそ)れたからでした。
安永8年(1779)、下山村の与左衛門(よざえもん)、五左衛門(ござえもん)は、甲府町方大工などほかの土地の大工4人とともに江戸(えど)へ行き、箱訴(はこそ)を行ないました。 箱訴というのは、江戸の評定所(ひょうじょうしょ)の前に置かれた目安箱(めやすばこ)に訴(うった)えを書いた紙を入れ、あとから将軍に読んでもらう仕組みです。 評定所は今で言う裁判所のようなところです。 与左衛門たちは、幸内・久左衛門を三郡の棟梁にならせないように、という内容の訴えをしました。
ところが、この訴えは越訴(おっそ)でした。 越訴というのは、まずは地元の裁判所に出すべき訴えを、いきなり上級の裁判所に訴えてしまうことで、江戸幕府(ばくふ)には厳しく禁じられていたやり方です。 結局、訴状(そじょう)は焼き捨てられ、与左衛門たちは下山に帰りました。
下山に戻った与左衛門たちは、今度は市川(いちかわ)代官所(だいかんしょ)に訴えました。 しかし、当時の代官、中井清太夫(なかい・せいだゆう)は幸内・久左衛門との結びつきがあったようです。 ですから反対派の訴えを取り上げようとはしませんでした。 安永(あんえい)9年(1780)になると市川代官所の代官は柴村藤三郎(しばむら・とうざぶろう)に代わりますが、柴村も反対派の訴えを聞き入れませんでした。
天明(てんめい)元年(1781)、反対派は大工仲間の連判(れんばん)を作りました。 自分たちの意見に賛成する人に名前を書いて判(はん)を押してもらう、署名(しょめい)リストのようなものです。 下山大工のほとんどである147人の連判を添(そ)えて、長い文章の訴状を作ったのです。
この訴状を持って江戸へ行き、この年の12月、老中(ろうじゅう)松平周防守康福(まつだいら・すおうのかみ・やすよし)への駕籠訴(かごそ)が実行されました。 駕籠訴とは、幕府の位(くらい)の高い人が駕籠(かご)に乗って通るのを待ち受けて、訴状を投げ入れることです。 駕籠訴というやり方そのものがすでに、越訴です。
これも越訴ではありましたが、結局この駕籠訴によって、問題は解決に向かいました。 勘定奉行所(かんじょうぶぎょうしょ)で下された判決では、幸内・久左衛門の支配権が全面的に否定されました。 これにより、穴山梅雪(あなやま・ばいせつ)の時代から続いた幸内・久左衛門の家系の大工支配権が消滅(しょうめつ)しました。 古くからの由緒(ゆいしょ)ではなく、実力がものを言う時代になったのです。 |