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下山と下山大工の歴史

しもやまとしもやまだいくのれきし
[1. 下山大工についての言い伝え | 2. いつ、どうして下山大工が生まれたか? | 3. 穴山氏の時代の下山大工]
[4. 江戸時代の下山大工 | 5. 下山大工の全盛期と人数の記録 | 6. 明治から現代まで]

2. いつ、どうして下山大工が生まれたか?
 大石寺(たいせきじ)の「六壺(むつぼのま)」には、正応(しょうおう)3(1290)年の日付が書かれた棟札(むなふだ)が残っています。
 棟札というのは、いつ、だれが、どのようないきさつでその建物を建てたのか、などを書きこんだ板のことで、新しい建物を造った時や修理をした時に、屋根の内側の柱に釘(くぎ)で打ちつけておきます。 ですから、とても古い建物でも、棟札が残されている場合、その棟札に書かれた文字を読めば、いつ、だれが建てたものかを知ることができるのです。 大石寺の「六壺の間」は、正応3年(1290)に造られた、ということがわかります。

 けれども、下山大工の名前が書かれた棟札で、もっと昔のものがあるのです。 それは、笛吹市境川町(ふえふきし・さかいがわちょう=旧東八代郡境川村)の石橋八幡(いしばしはちまん)神社が再建された時の棟札で、承久(じょうきゅう)元年(1219)の年号と、「下山大工 七郎二」という大工さんの名前が書かれています。 この棟札が残っているので、大石寺の「六壺の間」より70年くらい前にはもう、下山には大工さんがいて活動していた、と考えることができるのです。 この石橋八幡神社のものが、現在のところ、下山大工に関係のある最も古い棟札です。

 1219年ごろの下山は、どんなようすだったのでしょうか。 「鎌倉(かまくら)時代」と呼ばれる時代です。 鎌倉時代は1185年に始まりましたが、それより少し前に、南部三郎光行(なんぶ・さぶろうみつゆき=南部氏)が、今の南部町に住みついて支配をするようになりました。 もう少したったころ、今度は南部氏と同じ一族の下山小太郎光重(しもやま・こたろうみつしげ=下山氏)がやって来て、下山に住みつきました。 だいたい1202〜1203年のことです。
 下山氏は下山に来た時に、自分たちの住む家やそのほかの建物を建てるために、大工さんも一緒(いっしょ)に連れて来ました。 大工さんだけでなく、屋根を造る人や壁(かべ)を塗(ぬ)る人、石を使ってものを造る人など、いろいろな種類の技術を持った職人たちが来たことでしょう。 こんなふうに、下山氏と一緒に下山にやってきた大工さんの中に、もしかしたら「石川」という名字(みょうじ)の人がいたのかも知れません。

 下山大工のはじまりは、よその土地からやって来た大工さんだったのかも知れませんが、このあと、下山の大工さんの数はどんどん増えて行きます。 下山に大工さんが増えたいちばんの理由は、建物を建てるための木がたくさんあったからでしょう。 木がたくさんあったということは、山がたくさんあったということです。 けれども、山がたくさんあるために、下山には田んぼや畑に向いた平らな土地があまりありませんでした。 これは、今でもほとんど変わっていません。
 平らな土地が少なかったので、充分(じゅうぶん)な作物を作ることができませんでした。 これでは暮らして行けませんので、農業以外の仕事が必要だったのです。 そこで、多くの下山の人たちは、農業もやりながら大工の仕事もするようになったのです。 生きて行くために必要な仕事だったので、一生懸命(いっしょうけんめい)働きました。 大工さんの数も多かったので、うかうかしていたら仕事にありつけなかったかも知れません。
 こんなふうに、みんなが競争し合い一生懸命やったので、下山大工全体の技術のレベルも上がって行ったのでしょう。

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