1282(弘安5)年に日蓮聖人(にちれんしょうにん)が亡(な)くなって間もないころのことです。 日蓮聖人にはたくさんのお弟子さんがいましたが、なかでも六老僧(ろくろうそう)と呼ばれる6人の偉いお弟子さんがいました。 そのひとりが日興上人(にっこうしょうにん)で、日蓮聖人のあとを継(つ)ぐお坊(ぼう)さんには日興上人を、とみんなが考えました。
ところが、それに反対する人がいました。 そのころ身延(みのぶ)の村を支配していた波木井実長(はきい・さねなが=南部六郎実長)です。 実長は、前に日興上人から信仰(しんこう)のことで厳しく叱(しか)られたことがあり、そのことを根に持っていたのです。 そのため、日興上人は1289(正応2)年、身延を去って富士(ふじ)郡へ行ってしまいました。 富士郡は、今の静岡(しずおか)県の富士宮(ふじのみや)市のことです。
日興上人が身延を去るときに、下山の石川という家の大工さんを、一緒(いっしょ)に連れて行きました。 この大工さんが、富士郡で「六壺の間(むつぼのま)」という名前のお堂を建てました。 これが、今の日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)の総本山(そうほんざん)である大石寺(たいせきじ)のはじまりです。 今でも同じ名前のお堂がありますが、これは大石寺ができて700年たった記念に、最近になって新しく建てられたものです。
「六壺の間」は、四つの辺のそれぞれが12間(けん)(21.816メートル)ある、大きな建物だったそうです。 どのくらいの大きさかというと、身延山久遠寺(くおんじ)の本堂の1.5倍くらいです。 その建物の内部が横の方向に3区画、奥(おく)の方向に2区画の6区画に区切られていたことから、「六壺の間」と呼ばれるようになりました。
これが、下山大工についてのもっとも古い言い伝えとされています。 この話が伝えられているのは、下山の石川武重(いしかわ・たけしげ)さん、石川孝重(いしかわ・たかしげ)さん、石川与市(いしかわ・よいち)さんの家です。 この3軒(げん)の石川さんの家は同じ一族で、大石寺にあるさまざまな建物を建ててきた一族なのです。 |