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下山と下山大工の歴史

しもやまとしもやまだいくのれきし
[1. 下山大工についての言い伝え | 2. いつ、どうして下山大工が生まれたか? | 3. 穴山氏の時代の下山大工]
[4. 江戸時代の下山大工 | 5. 下山大工の全盛期と人数の記録 | 6. 明治から現代まで]

4. 江戸時代の下山大工
 穴山(あなやま)が途絶(とだ)えたあと、甲斐(かい)の国は徳川家康(とくがわ・いえやす)や、ほかの人たちに支配されます。 支配者が変わってからも、穴山氏が竹下家、石川家に与(あた)えたいろいろな特権(とっけん)はそのまま認められていました。
 江戸(えど)時代になってからの竹下家と石川家は、役引職人(やくびきしょくにん)に加えられて、明治(めいじ)時代になるまで続きました。 役引職人というのは、年に24日、領主の御用(ごよう)を勤めるのと引きかえに、いくつかの義務を免除(めんじょ)された特別な職人のことです。

 大工は役引職(やくびきしょく)のなかでも特に、「ほかの職にまさる職」として大切にされました。 文化(ぶんか)3〜11年(1806〜14)ごろの資料によると、この時代、甲斐(かい)の国の役引職人は153人いて、そのうちの14人が大工でした。 その14人のなかのふたりが石川家の久左衛門(きゅうざえもん)と竹下家の幸内(こうない)でした。

 江戸時代には、下山大工の活動が盛んになりました。 下山大工のことが書かれている文書(もんじょ)や棟札(むなふだ)、建物などの量が増えてくるので、そのことがわかります。 河内(かわうち)の大工は、自分たちのことを「百姓(ひゃくしょう)大工」とか「作間(さくま)大工」などと呼びました。 作間というのは農閑期(のうかんき)、つまり農業が暇(ひま)になる時期のことです。
 三郡(さんぐん)の大工はもともと農業をしていましたが、それだけでは生きていけないので、農業の合間(あいま)に大工をしている者が多かったのです。 生きて行くために必要だったということが、大工として高い技術を保ち、さらに発展して行くことができた理由のひとつと考えられます。

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