鎌倉(かまくら)時代の最初のころ、南部(なんぶ)氏は、源頼朝(みなもとのよりとも)が奥州(おうしゅう)で藤原(ふじわら)氏を征伐(せいばつ)した時に活躍(かつやく)しました。 そのほうびとして1191(建久2)年に、頼朝から奥州に土地をもらいました。 奥州というのは今の東北(とうほく)地方のことで、南部氏がもらった土地は、今の岩手(いわて)県にありました。
南部氏は奥州で活動するようになり、南部町の領地の方は一族の者に任せることにしました。 南部町の領地に残った一族も、1393(明徳4)年、南北朝(なんぼくちょう)がひとつになった次の年に奥州へと去って行きました。 一方、南部氏の一族だった下山氏は、鎌倉時代の中ごろには河内(かわうち)地方から姿を消していました。
南部(なんぶ)氏が去って行ったあとに河内(かわうち)の領主になったのが、穴山(あなやま)氏です。 穴山氏は下山氏が住んでいた館(やかた)の跡地(あとち)に住むことにしました。 穴山氏は武田(たけだ)氏の親族で、武田氏にとても信頼(しんらい)されていました。 室町(むろまち)時代の終わりごろのことで、戦国(せんごく)時代とも呼ばれる時代です。
穴山信友(あなやま・のぶとも)とその息子(むすこ)の信君(のぶきみ)は、武田信虎(たけだ・のぶとら)と信玄(しんげん)のために働いていました。 信虎は、信玄のお父さんです。 穴山信君は梅雪(ばいせつ)という名前で有名です。 梅雪のお母さんは信玄のお姉さんなので、梅雪にとって信玄は叔父(おじ)さんということになります。
信友と梅雪の親子は、河内地方をしっかりとまとめ、発展させるために努力しました。 特に梅雪について、たくさんの記録が残っています。 穴山親子は山を作り、竹を育てました。 梅雪は、土木や建築に必要な材料をそろえ、商工業に力を入れました。 なかでも大工を大切にしました。
穴山親子の時代に河内には20以上のお寺や神社が造られていますから、たくさんの大工が必要でした。 この時代に、河内の大工たちの間にまとまりが生まれました。 「座(ざ)」というかたちをもって、穴山氏と大工たちはつながれていたのです。 梅雪は、竹下(たけした)家、石河(石川)家の二つの大工の家系に、河内(かわうち)の大工をまとめる役割を与(あた)えました。
戦国時代には各地で争いが起きていたので、敵を攻撃(こうげき)したり敵から領地を守ったりするためにも、大工の力はなくてはならないものでした。 梅雪は、住んでいた土地の南側に、きれいに家を並べて建てて大工さんを集めて住まわせました。
ここは番匠小路(ばんじょうこうじ)と呼ばれ、今でもその区域は大工町(だいくまち)と呼ばれています。 番匠というのは大工さんのことです。
1582(天正10)年に武田氏が滅亡(めつぼう)します。 武田氏滅亡の直前に徳川家康(とくがわ・いえやす)に降伏(こうふく)した梅雪は、織田信長(おだ・のぶなが)から安土城(あづちじょう)に招かれます。 家康も一緒(いっしょ)でした。 しかし本能寺の変(ほんのうじのへん)が起き、逃(に)げ帰る途中(とちゅう)で梅雪は山城(やましろ)の国(今の京都(きょうと))、宇治田原(うじたわら)の山の中で殺されてしまいました。
梅雪には勝千代(かつちよ)という息子がいましたが、勝千代も16歳の若さで亡(な)くなり、穴山氏の家系は途絶(とだ)えてしまいました。 |