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下山と下山大工の歴史

しもやまとしもやまだいくのれきし
[1. 下山大工についての言い伝え | 2. いつ、どうして下山大工が生まれたか? | 3. 穴山氏の時代の下山大工]
[4. 江戸時代の下山大工 | 5. 下山大工の全盛期と人数の記録 | 6. 明治から現代まで]

5. 下山大工の全盛期と人数の記録
 下山大工の人数についての記録は、江戸(えど)時代(1603〜1867年)の中ごろから終わりにかけてのものがいくつか残ってます。

 宝暦(ほうれき)6年(1756)の三郡出入(さんぐんいでいり)の幸内(こうない)派の訴状(そじょう)には、140〜150人の大工の名前が書かれています。 文化(ぶんか)6年(1809)に作られた『万年太子講定(まんねんたいしこうさだめ)』には、当時の下山大工全員と考えられる名前が書かれていて、その人数は206人です。
 また、文政(ぶんせい)6年(1822)の『職業出入(しょくぎょうでいり)訴状人別帳(にんべつちょう)』には308人の下山大工の名前が書かれています(このうち大庭(おおにわ)70人、本町(ほんまち)67人、大工町(だいくまち)50人)。 この年の河内(かわうち)全体の大工の数は1054人でした。 三郡出入と職業出入、太子講(たいしこう)については、このあとの章を読んでください。

 下山大工の全盛期(ぜんせいき)は文化から文政(ぶんせい)の年間(1804〜30年)だと考えられます。 文化3年(1806)に『?語彙集斐国志(かいこくし)』という、甲斐(かい)の国の地誌をまとめた本が作り始められますが、この『甲斐国志』のための調査報告によると、当時の下山には384戸(こ)の家があり、住民の数は1662人、うち男の数は832人でした。
 この数は文政になってもだいたい同じだったようです。 ですから、文政の時代には、下山で仕事を持っている男たちの7〜8割が、大工をしていたと考えることができます。

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