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身延に遺る作品
みのぶにのこるさくひん
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四国堂
■四国堂と八十八体仏
寛政12(1800)年10月25日、木喰上人は
廻
国(かいこく)の大願(たいがん)を成就(じょうじゅ)し、丸畑に帰ってきました。 帰郷(ききょう)してまず最初に着手したのが、永寿庵(えいじゅあん)の修理と五智如来(ごちにょらい)像の彫刻でした。 続いて
四国堂
の建立(こんりゅう)と
八十八体仏
(はちじゅうはちたいぶつ)制作にとりかかるのですが、それは村の人々の懇願(こんがん)によるものでした。 次の旅に発とうとしていた木喰さんをつかまえて、
八
十八箇所霊場(れいじょう)の
本
尊(ほんぞん)を安置した四国堂(しこくどう)を建てて欲しい、とお願いしたのです。
四国堂内部
仏像を彫り始めたのは、享和元(1801)年の3月6日です。 木喰さんの生家のある向川(むかわ)地区だけでなく、近隣(きんりん)の集落の家も併(あわ)せて四国堂建立のための
講
(こう)を結成していたのですが、八十八体仏が半分ほど仕上がったときに、ほかの村の家々は講中から抜けてしまいました。 残った丸畑の12軒(けん)と南沢(なみさわ)の5軒が相談して、最後までやり遂(と)げる意志を確認し合いました。
けれども、そののちにも離脱(りだつ)する家があり、最終的には13軒になってしまいました。 残った家の人々は、「十三人講中」とし、さらに強く申し合わせて建立を続けました。 このいきさつについては、木喰上人がのちに記した『
四国堂心願鏡
(しこくどうしんがんのかがみ)』に書かれているので、詳(くわ)しく知ることができるのです。
八十八体仏は同じ年の11月の末日に完成しました。 お堂が完成したのは翌年の1月末、2月8日に
開
眼供養(かいげんくよう)が行なわれています。 八十八体の像のうちの8体は、最後まで十三人講中として残った南沢地区の3軒の家に、
内
仏(うちぼとけ・ないぶつ)として納められました。
日本廻国供養碑
(右)
子安観世音像
享和元(1801)年ごろ(84歳)
高さ 80.0cm 材質:とち
9カ月の日々を費(ついや)やして開眼供養にいたった四国堂の八十八体仏でしたが、供養の日に、その世話や手伝いをしにきた人が誰もいなかったと、木喰さんは『四国堂心願鏡』に書き記(しる)しています。 お堂の掃除(そうじ)もなされず、四国堂の建立を強く望んでいた村人たちの気持ちは、すっかり冷めてしまっていたようです。
時は流れ、明治36(1903)年、四国堂を巡(めぐ)って村のうちでもめごとが起きました。 四国堂を護(まも)ってきたのは木喰さんの生家である伊藤家でしたが、村の人たちはそれを村の財産(ざいさん)だと主張(しゅちょう)し、本尊を売却(ばいきゃく)することを要望(ようぼう)したのです。 裁判(さいばん)にまで発展(はってん)し、『四国堂心願鏡』などが証拠(しょうこ)となって村人側の敗訴(はいそ)に終りました。 しかし、大正8(1919)年になって、伊藤家の当時の当主が四国堂を解体(かいたい)してしまい、八十体の仏像を売り払ってしまいました。 そして、
柳宗悦
(やなぎ・むねよし)の登場となるのです(→「木喰上人入門 ≫ メジャーデビュー〜木喰仏再発見のおはなし」)。
柳宗悦が木喰仏に出逢(あ)い、丸畑を訪れた大正13年には、四国堂は跡形(あとかた)もなく、草の中に石碑(せきひ)のみが埋もれていました。 それからさらに年月が過ぎ、昭和53(1978)年に四国堂が復元されました。 木喰さんの子孫(しそん)の方々が手間を尽(つ)くし心を尽くし、全国のたくさんの人々から寄せられた浄財(じょうざい)によって実現した、たいへん意味深い願いの成就です。 柳宗悦が四国堂跡で見た石碑、日本廻国供養碑は、今は再建されたお堂のなかに安置されています。
馬頭観世音像 薬師如来像
享和元(1801)年(84歳)
高さ 72.5cm, 72.0cm 材質:とち
昭和43(1968)年12月県文化財指定
千手観世音像 聖観世音像
享和元(1801)年(84歳)
高さ 73.5cm, 72.6cm 材質:とち
昭和43(1968)年12月県文化財指定
この4体は、八十八体仏のうち、「十三人講中」として残った南沢地区の3軒に分け与えられた内仏です。 今でも2軒の家に2体ずつ、大切に保管されています。
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