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木喰上人の足跡 |
もくじきしょうにんのそくせき |
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木喰上人の若き日 (加藤為夫さん著『富士川谷物語』より) |
元文2年(1737)の春、古関村丸畑へ、市川代官所の若い役人が検分に来たので、村の者が交代で、長塩から丸畑への坂道を駕籠(かご)で担ぎ上げた。 途中、丸畑の六兵衛が、担ぎ手を代わろうとすると、若い役人は「お前は担がなくていい」と言ったので、他の者が代わった。 丸畑での検分が終わり、役人はある家に宿をとった。その夜ふけ、六兵衛の家の戸を叩く者があった。 戸を開けてみると、昼間、自分をいたわってくれた若い役人であった。 それが数年前に村を出たまま音沙汰のなかった、二男であることに六兵衛は気づき、二人は再会を喜びあった。 若い役人は、六兵衛に十両を残して宿所へ帰った。 この役人が、木喰五行上人(1718−1810)の、若き日の姿だと伝えられている。 これは一つの上人讃仰譚(さんこうたん)であるが、その自伝によれば、上人は14歳で江戸に出て苦労し、22歳で相模国(神奈川県)の大山不動で得度出家し、古義真言宗の修行を続け、45歳で日本回国の大願をたて、常陸(ひたち)国(茨城県)で木食観海上人から、火食(かしょく)、五穀断ちの木食戒を受戒し、名を「行道」と改めた。 11年間の木食苦行を積み、56歳で回国の旅を踏み出した。 関東一円からみちのく一帯を廻った彼は、安永7年(1778)、蝦夷地(北海道)に渡り、西海岸各地を2年間教化巡歴した。 このあと、回国は東海、関西、中国、九州におよび、多くの仏像をのこした。 木喰は83歳で3度目の帰郷をし、丸畑に四国堂を建て仏像を納め、「四国堂ぼだいの道は遠くとも、近道みればなむあみだ仏」の一首をのこして、再び旅に出た。 4度目の帰郷は、91歳の時であった。 木喰上人の回国の旅は、56歳から93歳までの37年間で、その行程は、北は北海道から南は九州の南端まで、2万キロにおよんだ。 この間、各地にのこした仏像は、千余体におよぶ。 木喰微笑仏は、庶民の生活とともに生きた、最初の仏でもあった。 |