文化3年10月に京都の清源寺(せいげんじ)にたどり着いた木喰さんは、そこで十六羅漢(じゅうろくらかん)の像を造ります。 そして12月8日、本尊(ほんぞん)釈迦如来(しゃかにょらい)像を彫り上げた日の夜、木喰さんは霊夢(れいむ)を見、お告げを受けました。 そのお告げでは600歳の長寿を与えられ、名を改めるように、といわれました。 このため木喰さんは、それまで使っていた「木喰五行菩薩(もくじきごぎょうぼさつ)」から「神通光明明満仙人(じんつうこうみょうみょうまんせんにん)」に名前をかえたのでした。
そのときのようすが、清源寺に伝わる『十六羅漢由来記(ゆらいき)』に記されています。 |
木喰さんの最後の彫刻と考えられているものは、文化5(1808)年、甲府の教安寺(きょうあんじ)で3日間で刻んだ七観音です。 その2年後にお寺は火事で焼けてしまうのですが、七観音は無事でした。 けれども残念なことに、昭和20年7月の甲府空襲(くうしゅう)で、お寺とともに観音像もすべて焼けてしまいました。 今となっては、柳宗悦(やなぎ・むねよし)が七観音を目にして書き残した文章から、想像することしかできません。 |
甲府教安寺を発ったのちの木喰さんは、どこへ向かったのでしょうか。 いつ亡(な)くなったのでしょうか。 亡くなった地については、いくつかの説がありますが、どれも決定的な裏づけはなく、仮説(かせつ)の域(いき)を出ていないようです。
のちに、木喰さんの甥(おい)にあたる人が、木喰さんの生まれた家に笈箱(おいばこ)を届けたそうです。 木喰さんが廻国の折に背負(せお)って歩いていたものです。 そのなかに紙位牌(かみいはい)があり、「円寂木喰五行明満仙人品位 文化七庚午年六月初五日」と書かれていました。 しかし、亡くなった場所などについては、甥は何も語らなかったそうです。 いっさい口にするな、という木喰さんの遺言(ゆいごん)があったから、ということです。 |
(「木喰上人の足跡」終わり) |