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展示会資料

てんじかいしりょう
[1.はじめに | 2.松木家資料 | 3.松木輝殷と洋風建築資料]
[4.松木輝殷が関わった建築 | 5.松木輝殷を育てた人々 | 6.松木輝殷年譜]

5. 松木輝殷を育てた人々
 松木輝殷は、天保14年(1843)1月、巨摩(こま)郡下山村の大工棟梁(とうりょう)松木運四郎(まつき・うんしろう)の次男として生まれました。 名は八三郎(やさぶろう)で明治8年(1875)の末頃に輝殷(てるしげ)と改名しました。

 輝殷の父運四郎宣絹は、文政11年(1823)南巨摩郡西島の若宮八幡(はちまん)神社本殿、天保2年(1831)の同じ若宮八幡御殿、天保3年(1832)の善光寺(ぜんこうじ)普請(ふしん)などで棟梁石川七郎左衛門(いしかわ・しちろうざえもん)の元で仕事をし、天保14年(1843)には棟梁として南巨摩郡中富町八幡神社本殿を請(う)け負っています。
 棟梁となっても弘化3年(1846)の御嶽山(みたけさん)普請、安政7年(1860)の甲府一蓮寺(いちれんじ)普請など石川七郎左衛門銘(めい)の帳簿(ちょうぼ)を預かり仕事をしていることから、七郎左衛門を支えた大工であったこと、また下山村の唄(うた)に「雷(かみなり)さまは天でなり、運四郎さんは地でなる」とあり、現場を差配(さはい)し村人に慕(した)われた運四郎の姿が彷彿(ほうふつ)されます。

 石川七郎左衛門は明和7年(1770)の生まれで重豊、重甫(しげすけ)と名乗り彫刻(ちょうこく)に優れ、享和年間(1801〜1804)に父石川政五郎共重(いしかわ・まさごろうともしげ)(外記=げき)の後を継(つ)ぎ完成させた甲府金桜(かなざくら)神社の神楽殿(かぐらでん)は、下山甚句(じんく)に「よく出た御嶽神楽殿下山大工さんと江戸のしゃりきで」と謡(うた)われ下山大工の秀作(しゅうさく)にかかげられ、文化9年(1812)には『工匠雛形増補初心伝(こうしょうひながたぞうほしょしんでん)』を著(あらわ)しました。

 江戸時代における松木輝殷の動向は、輝殷17歳の「安政七年一蓮寺作事場金銀出入帳」で知ることができます。 棟梁は石川七郎左衛門と藤巻太郎右衛門(ふじまき・たろうえもん)で、藤巻太郎右衛門は、安永9年(1780)甲府甲斐奈(かいな)神社拝殿(はいでん)棟札(むなふだ)に一蓮寺町大工藤巻太郎右衛門藤原宣流とある宣流もしくはその子で一蓮寺町の大工です。 この作事場で輝殷(八三郎)は父運四郎と共に仕事をしており、運四郎につき大工の技を身につけていった様子が伺(うかが)えます。
 また、輝殷が設計作図、彫刻に優れた才能を発揮するようになったのは、石川七郎左衛門の影響(えいきょう)があったと考えられます。 輝殷は石川七郎左衛門重甫が73歳のとき生まれ、父運四郎の資料に石川重甫銘の『鍼灸要歌集五之巻小児之部』があることから重甫から孫のようにかわいがられていた様子が伺えます。 さらに、輝殷が建築を学んだ書籍(しょせき)には「石川琴堂(きんどう)」「石川」の蔵書印(ぞうしょいん)と下山石川外記、石川七郎左衛門の墨書(すみがき)が見られ、さらに、運四郎が買い与えてくれたことを記した銘のある書籍もあります。

 さらに宝暦9年(1759)の石川致英(石川久左衛門=きゅうざえもん)の神社本殿指図(さしず)、松木重左衛門(じゅうざえもん)の四脚門(よつあしもん)指図など手に入れにくい実際の指図もあることから、設計や彫刻を学ぼうとする輝殷に重甫が石川家伝来の書籍や図を与え、さらに運四郎がこれを積極的に伸(の)ばそうとした様子を伺うことができます。

→松木家・石川家系図

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