松木輝殷建築指図展 トップページ > 松木輝殷建築指図展 > 展示会資料

展示会資料

てんじかいしりょう
[1.はじめに | 2.松木家資料 | 3.松木輝殷と洋風建築資料]
[4.松木輝殷が関わった建築 | 5.松木輝殷を育てた人々 | 6.松木輝殷年譜]

2. 松木家資料
 松木家資料は、勝沼(かつぬま)町勝沼の松木仁家に伝えられた、江戸(えど)時代後期から昭和(しょうわ)初期に至る、松木重左衛門(じゅうざえもん)(初代)−重左衛門(2代目)−運四郎(うんしろう)−輝殷(てるしげ)−栄吉(えいきち)−光正(てるまさ)の6代にわたる下山大工関係資料です。 松木家は、南巨摩(みなみこま)郡身延(みのぶ)町の下山で代々大工を職とした家系で、昭和初期に松木仁氏の先代松木光正氏が勝沼に移ってまいりました。 下山は江戸時代後半から甲州(こうしゅう)は元より関東一円、信州(しんしゅう)、駿河(するが)に至(いた)るまで活躍(かつやく)した下山大工が手掛(が)けた社寺仏閣(ぶっかく)建築を見出すことができます。

 松木家資料の中で注目されるのは江戸時代後期の下山大工関係資料と、明治の漆喰(しっくい)系?語彙集洋風(ぎようふう)建築(山梨県内ではこれを推進した県令の名から「?語彙集村式(ふじむらしき)建築」と呼ばれる)の中でも重要文化財の?語彙集沢(むつざわ)学校に代表される学校建築を多く手掛けた松木輝殷関係資料です。

 明治時代の前半から中葉(ちゅうよう)にかけて県内各地に造られた藤村式建築は、現存するものが6棟(とう)しかなく、さらに建築当初の図面が確認できる建物は山梨県庁舎と?語彙集鶴館(ぶかくかん)の2棟のみ、建築関係資料は?語彙集穂(みずほ)学校資料があるのみで、この点、輝殷の図面ならびに建築資料は、極めて貴重な資料といえます。

 また、今回初めて公開された明治時代の社寺仏閣図及び建築資料は、まだ調査研究が進められていない分野に係(かか)わるものであることから、今後その研究が進展していく過程で基礎(きそ)的資料として重視される可能性をもつ資料と考えられます。

 さらに、松木家資料の重要な点は、天保14年(1843)に生まれ、下山大工の中でも著名(ちょめい)な棟梁?語彙集川七郎左衛門(いしかわ・しちろうざえもん)と父松木運四郎の元で宮大工としての技を学んだ松木八三郎(やさぶろう)が、明治維新(いしん)と?語彙集仏毀釈(はいぶつきしゃく)という時代の変化の中、時代の最先端(せんたん)を行く洋風建築に果敢(かかん)に挑戦(ちょうせん)し、名を輝殷と改め、学校建築の棟梁(とうりょう)松木輝殷として知られるようになり、洋風建築の定着とともに、再び社寺仏閣建築の設計作図と彫刻(ちょうこく)に専念(せんねん)し、伝統の技の継承(けいしょう)と斬新(ざんしん)な彫刻?語彙集(えよう)創出(そうしゅつ)を行い、明治44年(1911)9月68歳で亡くなる直前まで仏堂の設計に没頭(ぼっとう)していた明治下山大工の生涯(しょうがい)を見渡(わた)せる、一括(いっかつ)資料であることです。

前のページへ  次のページへ  松木輝殷トップページにもどる