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にしじまわしのれきし 西嶋和紙の歴史
 西嶋和紙のはじまり  江戸時代のようす  明治から昭和にかけて  西嶋画仙紙  未来へつなぐ西嶋和紙

西嶋画仙紙
 第二次世界大戦終戦後の日本には、国交断絶(こっこうだんぜつ)のため中国からの画仙紙(がせんし)が入って来なくなっていました。書道用紙が不足していたこの時期には、市川紙と西嶋紙で代表される甲州紙の需要(じゅよう)が高まり、「漉くはじから売れていた」といいいます。しかし、経済復興(けいざいふっこう)が進んで品不足の状態が解消されると、新しい販路(はんろ)を開拓(かいたく)しなければならなくなりました。
 戦後の書道再興(さいこう)に力を注いでいた書家の竹田悦堂(たけだ・えつどう)さんは、質・量ともに安定した紙の調達(ちょうたつ)を重要視(じゅうようし)していました。その竹田さんと、満州(まんしゅう)から帰郷(ききょう)し紙商を始めた一瀬憲(いちのせ・けん)さんが出会い、新しい画仙紙の開発が始まりました。1948(昭和23)年のことです。
 紙漉きを担当(たんとう)したのは西嶋の佐野喜代亀さんでした。三椏(みつまた)を直接使うとにじみが出ないため、三椏の反故(ほご)紙を原料に加えるなどの工夫を重ね、墨色(ぼくしょく)、にじみ、かすれ、紙肌(かみはだ)など、納得の品質ものができあがったということです。このようにして西嶋画仙紙が生まれました。
 昭和30(1955)年に東京都美術館が改築(かいちく)され展示の環境が変わったことにより、書作品に求められる発墨(はつぼく)、それに適した紙の質がそれまでとは違ったものになりました。西嶋画仙紙はその変化に応(こた)えることのできる品質を持っていたので、西嶋画仙紙の需要(じゅよう)がいっそう高まりました。昭和40年代には画仙紙の引き合いが増えて、紙の足りない状態になったということです。
 また、昭和47(1972)年に中国との国交が正常化し、中国や台湾(たいわん)からの画仙紙の輸入が再開されましたが、その影響はさほど大きくはありませんでした。昭和50年代にかけてのこの時期が西嶋和紙の最盛期(さいせいき)で、この頃には手漉き和紙を行う家が26軒(けん)ありました。

西嶋和紙の底力
 静岡県富士市立博物館の1989(平成1)年の企画展に伴い発刊された「富士川水系(すいけい)の手漉和紙」から、内容の一部を紹介します。ここでは、富士川水系の紙漉きの起源を以下のように3つに分類しています。

起源の分類 地区
(1) 文化的な漉立て起源 市川大門を中心とした地域
(2) 意図(いと)的な漉立て起源 西嶋および峡南地区上領(かみりょう)
(3) 政策(せいさく)的な漉立て起源 駿河(するが)及び峡南地区下領(しもりょう)

 (ここでいう峡南地区上領は旧中富町以北、下領は旧身延町以南を指しています)

 (1)の市川大門の紙は写経(しゃきょう)用の紙として始まったもので、文化的活動の中から生まれた紙です。高度の技術を必要とするものであったために武田家や徳川家の御用(ごよう)を賜(たまわ)りました。

 (3)の駿河半紙などの起源は、幕府(ばくふ)の赤字財政(ざいせい)の補填(ほてん)を意識した紙生産であり、あくまで経済(けいざい)が優先されていたということです。そのため、和紙生産そのものへの執着(しゅうちゃく)はなく、その時その時でより有利な作物を生産するという、時代に即(そく)しての製紙業の開発が見られます。また、長い伝統や優(すぐ)れた技術を持たない地域であったことが、大資本(だいしほん)の導入(どうにゅう)による洋紙(ようし)の生産に結びついたといえます。

 一方、西嶋の紙漉きは生きるための、生活に密着(みっちゃく)したもので、手漉和紙への執着はほかの産地とは比較(ひかく)にならない強いものがありました。農業の生産性が低い土地だったので、紙祖(しそ)と言われる望月清兵衛は、その不利な条件を利用して自生する楮(こうぞ)や三椏(みつまた)を使い、市川大門とは異なる紙質の伊豆(いず)修善寺の紙漉き技術を伝え、村の経済的な自立を図(はか)ったと考えられます。
 したがって、その活動は常に積極的(せっきょくてき)で、生活を守ることを第一とする考え方でした。明治以降(いこう)も、和紙の特徴(とくちょう)を残しながらも生産性を高めるためにセイコー式の漉き上げが考え出されるなどして、機械化の波を乗り越(こ)えてきました。

 一般に、同じ水系の村々の産業は、起源や発展の過程(かてい)が類似(るいじ)するものですが、富士川水系の紙漉きに関しては三者三様(さんしゃさんよう)の展開で、珍しいということです。