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にしじまわしのれきし 西嶋和紙の歴史
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西嶋和紙のはじまり
清兵衛さんの屋敷跡
望月清兵衛さんの屋敷があった場所。敷地内には裏山の沢から引かれた水の流れを分ける分水箱があります。この水を使って紙を漉いていたということです。
 西嶋和紙のはじまりについては、次のように伝えられています。

 武田信玄(たけだ・しんげん)の時代の西嶋村は、農業を行うには地理的に恵まれていませんでした。一方、西嶋村からさほど離れていない市川大門村ではすでに紙漉(す)きが行われており、西嶋にも同じように紙漉きの技術を取り入れたいと考えた人物がいました。望月清兵衛(もちづき・せいべえ)さんです。
 望月清兵衛さんは、1570(永禄13)年に修善寺(しゅぜんじ)に赴(おもむき)き、立野村(たちのむら・のちの修善寺町、現在は伊豆市)の製紙(せいし)技術を身につけました。この頃立野村で作られていた三椏の和紙、修善寺紙は、鎌倉(かまくら)時代にすでに幕府(ばくふ)の御料)紙(ごりょうし)として使われていたということです。
 翌1571(元亀2)年に西嶋に戻った清兵衛さんは、村民に製紙の技術を伝えました。そして西嶋で漉いた紙を武田信玄に献上(けんじょう)したところ、信玄はこれをたいへん賞賛(しょうさん)し、御料紙の漉きたてを命じたということです。信玄は、清兵衛さんを西嶋およびその近隣の紙改(かみあらため)役人に抜擢(ばってき)し、「西未(にしひつじ)」の朱印(しゅいん)を作り、武田菱(たけだびし)を刻んで与えました。
沢の水
裏山の沢の水は現在も生活用水として利用されています。
 朱印の「西」の字は「西嶋」の「西」、「未」は元亀2年の干支(えと)「辛(かのと)未(ひつじ)」の「未」を意味します。朱印を賜ったということは、西嶋における紙漉きが公認され、特許が与えられたということです。これは、改朱印のない紙の他国への持ち出しを禁止する、紙漉き仲間の独占(どくせん)的営業権を維持(いじ)する、などの特権の裏づけとして、長期にわたりたいへん意味のあるものだったようです。
 紙漉きには欠かせない水源(すいげん)については、富士川ではなく沢の水を使っていたということです。和紙作りでは、きれいな水の流れを利用して原料を晒(さら)します。原料に含(ふく)まれる不要な成分が洗い流され、漂白(ひょうはく)の効果も得られるということです。裏の山から清流が得られる土地であったことも、西嶋に和紙作りが栄えた大きな理由のひとつだといえるでしょう。

修善寺和紙のこと
 「ふるさと百話8」(静岡新聞社、1976年)に収録されている後藤清吉郎(ごとう・せいきちろう)さんの「和紙の旅」によりますと、修善寺紙というのは、田方(たがた)郡修善寺町(当時)で作られた紙で、一名「色よし紙」といい、この地方で漉かれた幾種類かの紙の代表的なものなのですが、明治の初期にこの世からまったく姿を消したということです(その後、修善寺紙を復活させる活動がおこり、現代につながっているようです)。
 その歴史は非常に古く、「平家(へいけ)物語の下学(かがく)集(室町中期の文安元年、1444年出版)にも記載(きさい)されており、五百十数年の歴史を持っていた」と記(しる)されています。特徴は、「淡紅(あわべに)色の染紙で簀(す)の目が粗(あら)く、染料(せんりょう)はリンボク、樹皮(じゅひ)を染料にして染めた淡紅色」ということです。
 筆者はまた、「曇徴(どんちょう)のように紙漉きに秀(ひい)でた僧(そう)が中央の寺院と修善寺を行き来して伝わった可能性」を指摘(してき)しています。