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にしじまわしのれきし 西嶋和紙の歴史
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江戸時代のようす
 武田氏滅亡(めつぼう)後の天正18(1590)年以降、富士川流域の河内(かわうち)領は徳川の直轄(ちょっかつ)領となり、西嶋もその支配に入りました。しかし、残された武田の家臣(かしん)たちへの配慮(はいりょ)があったためか、租税(そぜい)法などは「信玄仕置(しおき)の通り」とされ、以前のままで続けられました。
 「西嶋和紙のはじまり」で触れましたが、信玄から賜(たまわ)ったという「西未の印」により西嶋の紙漉きに特許が与えられ、紙漉き仲間の独占的営業権が保たれていました。こうした伝承を背景(はいけい)に、近世にいたっても紙改(かみあらため)役人としての地位を受け継(つ)ぎ、西河内領の紙漉き仲間をひとつにまとめていました。

 西河内領の紙漉き仲間は、運上紙(うんじょうし)と船役米(ふなやくまい)を税(ぜい)として納(おさ)めました。「運上」はその年ごとの出来高(できだか)に応じて物、または金銭(きんせん)を納めるもので、生産高による収益(しゅうえき)税ともいえるものです。西嶋などの紙漉きの村はこれを紙で納めていました。西河内領では檀紙(だんし)は生産高の20分の1、その他の紙は40分の1を納めるのがしきたりで、西嶋では糊(のり)入れ紙一束(ひとたば)198枚につき5枚を納めていたそうです。
 一方の「船役米」は漉き船一艘(そう)についきいくら、と額が決まっているもので、今日の事業税のようなものです。西嶋では武田家に上納(じょうのう)していた時代から、漉き船の増減にかかわらず「一村総株」として村単位で納めていました。享保9(1724)年の文書によれば、三石八斗五升二合の船役米を納めています。

 西嶋の村明細帳には「こうぞハ畑之端ニ少々御座候」と記されており、実際、和紙の原料となる楮(こうぞ)や三椏(みつまた)の自給率はごく低かったようです。多くは山資源の豊かな河内領の村々からの購入(こうにゅう)に依存していました。
 しかし、紙漉き業者からなる株(かぶ)仲間たちは、仲間だけの利益(りえき)を追求しようとする場合が多く、そのための弊害(へいがい)も多く生まれました。領内の楮・三椏を扱(あつか)う業者との間で原料の購入や国外への販売、紙漉きの新規(しんき)営業の抑制(よくせい)などをめぐって出入り(でいり=訴訟のこと)が何度もくり返されることとなってしまったのです。この深刻(しんこく)な状況は長く続き、初めの訴(うった)えから80年が経(た)った明治4(1871)年以降には、新政府のもとに「西未の印」も効力(こうりょく)を失い、運上役・株仲間も解体されて、新しい時代を迎(むか)えることとなりました。
 

紙漉き村の生活
 西嶋の人たちにとって紙漉きは、わずかな土地で行う農業とは比べるまでもない、たいへん重要な産業でした。紙漉きは農業のかたわらの副業として、家内(かない)工業で行われてきました。西嶋村の1年は次のようなものでした。

 毎年、紙を一斉(いっせい)に漉き始めるのは10月朔日(ついたち)です。この日からその年の終わりまでに漉く紙を「冬紙」、正月から4月までのものを「春紙」と呼びました。5月に入ると漉き船を洗い、紙役人の巡回(じゅんかい)を待って、種類・紙質・数量の紙改めの検査を受けました。紙の原料となる楮や三椏は、河内下(しも)領から毎年10月に荷造りされ、曳舟(ひきふね)によって富士川をさかのぼり、西嶋まで運ばれれてきました。
 10〜4月以外の、特に暑い時季を休業するのは、糊(のり)の原料となる液が腐(くさ)りやすくなることや、農繁期(のうはんき)であることが理由でした。それ以外にも、10〜4月の生産量に応じて市場(しじょう)価格の安定を図る、という目的があったとも考えられています。

 村では午後8時ころから3時間近く、どこの家からも三椏を叩(たた)くきぬたの音が聞こえ、夕食は11時過ぎにとるのがふつうだったといいます。
 和紙は、座って漉いていました。漉き船も小形で、奉書(ほうしょ)紙も糊入れもそのままの大きさに漉き上げたもので、現在のように大判に漉き上げてから、寸法に合わせて切ったものではありませんでした。
 近世中期から幕末(ばくまつ)期にかけての西嶋の和紙生産量は、年間約三万貫(かん)前後といわれています。村の人たちは、紙改めの印を受けた和紙を携(たずさ)えて、甲斐国内だけでなく、武州(ぶしゅう=東京都、埼玉県と神奈川県の一部)や相州(そうしゅう=神奈川県)などの近くの国々へ商売に出かけていたようです。

 10月の漉き始めを「カミバンネー」、4月の漉き終いを「カミジメー」と呼び、その日には親類縁者(えんじゃ)を呼んでささやかな酒宴(しゅえん)を催(もよお)すのがならわしになっていたそうです。また、西嶋ではかつて、「西嶋じゃ、打っちゃ、漉いちゃ、売っちゃ、買っちゃ、食っちゃ」と仕事歌が歌われたそうです。西嶋の村のようすをうまく言い表していますね。