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にしじまわしのれきし 西嶋和紙の歴史
 西嶋和紙のはじまり  江戸時代のようす  明治から昭和にかけて  西嶋画仙紙  未来へつなぐ西嶋和紙

明治から昭和にかけて
 西河内(にしかわうち)領の紙漉き株仲間は、明治維新(いしん)とともに解体され、新しい時代が始まりました。自由競争の時代を生き抜くために、技術改良や品質向上を望んだ西嶋の有志(ゆうし)の人たちの間で、組合を作る努力がなされました。そして明治30(1897)年に「西島改良製紙組合」を設立します。明治35(1902)年には「山梨産紙同業組合西島支部」として、手漉き和紙先進地の視察(しさつ)、技術の改善、製品の改良に努めるとともに、販路拡張(はんろかくちょう)の努力を続けました。
 その後、大正期の経済恐慌(けいざいきょうこう)による不況(ふきょう)の時代もありましたが、昭和の始めまでは和紙作りに関わる家は常に百戸(こ)前後あり、販路は関東信越(しんえつ)だけでなく北海道まで至りました。
 こういった活動から新たに生まれたのが「西島改良和紙」です。改良はまず、原料を煮(に)るときに加えていた石灰(せっかい)を苛性(かせい)ソーダに変えたことから始まりました。明治25(1892)年のことです。真っ白な「三椏(みつまた)製改良半紙」が評判(ひょうばん)を呼び、全国的に販売(はんばい)されることになったということです。

 西嶋の和紙作りには、ほかにもさまざまな研究と工夫がされてきました。

明治32(1899)年 簀桁(すげた)の改良。需要(じゅよう)の増加に合わせ、より大きな紙を漉くことのできる「八枚どり」にした。
ビーターの導入(どうにゅう)。原料の繊維(せんい)を叩(たた)きほぐすための装置(そうち)。動力は石油発動機で、のちに電化される。
大正3(1914)
 〜10(1921)年
鉄板立拝み式乾燥器「紙乾(ほ)し」のための乾燥(かんそう)器の開発。鉄板(てっぱん)製の平面式、直立式などを経(へ)て改善の末に、現在の原型といえる温湯(おんとう)式の乾燥器が完成。天候に影響されることがなくなり、生産量や品質が安定した。右の写真は現在の紙乾しのようす。
昭和25(1950)年 スクリーンの導入。原料に混じったちりなどの不純物(ふじゅんぶつ)を取り除(のぞ)くための装置。
昭和28(1953)年 油圧(ゆあつ)式圧搾(あっさく)器の導入。漉いた紙の水を抜くためのもの。
昭和40(1965)年 機械漉き和紙工場の操業(そうぎょう)。手漉きのような持ち味のある安価(あんか)な紙を漉くことができるように。
昭和45(1970)年 セイコー式簡易(かんい)抄紙(しょうし)装置の完成。ポンプを使って原料の液を汲(く)み上げ、いつでも、どの簀桁にも、一定の濃度の原料を流し込むことができるように。同じ品質の紙を大量に必要とする画仙紙(がせんし)作りに欠かせない装置。
昭和56(1981)年 西嶋和紙原料共同処理施設の完成。

 西嶋の和紙作りの道のりは決して平坦(へいたん)ではありませんでしたが、先人たちの献身(けんしん)的な努力の積み重ねがあってこそ、今日まで続く西嶋和紙の長い歴史があるのです。

和紙ちょこっとメモ
 第二次世界大戦までは、紙を売り歩く行商人(ぎょうしょうにん)もいたのですが、西嶋和紙の製品は主として数軒(けん)の問屋(とんや)によって販売されていました。問屋は全国各地の得意先(とくいさき)を回って注文を受け、荷造りをして甲斐岩間(かいいわま)駅から発送したのだそうです。菰(こも)で荷造りされた紙を、数台の大八車(だいはちぐるま)で列をなし、駅まで運搬(うんぱん)したとのことです。そうした情景には西嶋製紙の隆盛(りゅうせい)が感じられたと古老(ころう)は語ったということです。
(『中富町誌』より)