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みのぶみち 〜歴史と道筋

みのぶみち 〜れきしとみちすじ〜
[1. 甲斐九筋 | 2. 河内路・みのぶみち・駿州往還 | 3. みのぶみちの道筋]
[4. 大聖寺の言い伝えと日蓮入山 | 5. 武田信玄以後 | 6. 険しい道]

6. 険しい道
 みのぶみちは富士川(ふじかわ)沿いに開かれた道ですが、場所によっては道幅(みちはば)も狭(せま)く、伝馬(てんま)制度が整えられたといってもたいへんな難路(なんろ)だったということです。

 西島(にしじま)と鰍沢(かじかざわ)の間には、「西島截岩径(きりとおしみち)」と呼ばれる徒行路(かちじ)が開かれましたが、人馬(じんば)が充分(じゅうぶん)に行き交(か)えるだけの道幅を確保することができませんでした。 このため、この区間を避(さ)けて、いったん富士川対岸(たいがん)に渡(わた)り岩崎(いわさき)で右岸(うがん)に戻(もど)る、古くからの「両越(もろこし)の渡し」も利用されていました。
 切石(きりいし)と八日市場(ようかいちば)の間の「日下(ひさが)り道」も岩を切り開いた狭い道で、がけ崩(くず)れがひんぱんに起きる危険なところでした。
 飯富(いいとみ)と下山(しもやま)の間では早川(はやかわ)が富士川に合流していますが、ここの渡しは「早川の横渡し」といわれ、流れの激しいたいへん危険な箇所(かしょ)でした。 「横渡し」というのは、舟が急流に流されないようにするために、舳先(へさき)に麻縄(あさなわ)をくくりつけ、川の両岸にふたりずつ立った男たちがその縄を引き寄せながら、舟を渡したことからつけられた名前です。 この渡河(とか)のようすは、清水浜臣(しみず・はまおみ 1776-1824)が『甲斐(かい)日記』のなかで詳(くわ)しく書いています。

 各地から身延詣(もう)でに訪れる旅人には、みのぶみちと併(あわ)せて富士川を下る舟がよく利用されました。 甲州街道(こうしゅうかいどう)の石和(いさわ)から笛吹川(ふえふきがわ)を下り鰍沢まで、あるいは大野村(身延町)まで来る者もありました。 韮崎(にらさき)方面からも利用されました。
 陸路を旅した黒川春村(くろかわ・はるむら)は『並山(なみやま)日記』で次のように書いています(巻九、廿二日)。 「大方山添ひの細道にて富士川の西の岸なれば、或は嶮しきか(が)け路をよち(じ)、或は河原のいしまを傳ふ、されは(ば)足もとはいと六敷(むずかし)けれど山川のけしきはえもいはす(ず)面白し」。 続けて、富士川を舟で下れば早く行けるところを、わざわざ徒歩で行く者はあまりいない、とも書いています。
(「みのぶみち〜歴史と道筋」おわり)

【参考文献・資料】

『甲斐の道づくり・富士川の治水 歴史資料集』 (建設省関東地方建設局・甲府工事事務所) 『山梨県 歴史の道 ガイドブック』 (山梨県教育委員会) 『静岡県歴史の道 身延街道』 (静岡県教育委員会文化課) 『週刊日本の街道83 身延道』 (講談社) 『山梨百科事典 増補改訂版』 (山梨日日新聞社) 大聖寺WEBサイト

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