戦国(せんごく)時代になると、他国の制覇(せいは)を画策(かくさく)した武田信玄(たけだ・しんげん)が、軍事上の必要から甲斐九筋(かいくすじ)の整備に力を注ぎました。 みのぶみちも駿河(するが)に出る重要な道として整備され、このころから史料の裏づけも確実になります。
永禄(えいろく)3年(1560)の信玄による伝馬(てんま)制度「甲州伝馬の制」はたいへんすぐれたものだったので、各地の大名(だいみょう)が例にしたといいます。 みのぶみちでは甲府(こうふ)・市川(いちかわ)・岩間(いわま)・下山(しもやま)・南部(なんぶ)・万沢(まんざわ)の宿駅(しゅくえき)に伝馬が備えられていました。
江戸時代に入り、角倉了以(すみのくら・りょうい)により富士川(ふじかわ)の舟運(しゅううん)が始まると、身延詣(もう)でが盛(さか)んになります。 それに連れ、元政上人(げんせいしょうにん
1623-1668)の『身延のみちの記』など、日記や道中記(どうちゅうき)といった紀行文も多く書かれるようになります。 江戸時代の後期のものとしては、十返舎一九(じっぺんしゃいっく
1765-1831)の『諸国道中金草鞋(しょこくどうちゅうかねのわらじ)』、国学者であった黒川春村(くろかわ・はるむら 1799-1866)の『並山(なみやま)日記』などがあります。
身延山のお会式(えしき)が行なわれる10月13日には、方々から老若男女(ろうにゃくなんにょ)が訪れ、みのぶみちはたいそうな賑(にぎ)わいを見せました。 参詣(さんけい)客がたくさん宿泊(しゅくはく)した鰍沢(かじかざわ)では、甲府や市川大門(いちかわだいもん)からも料理人を呼び寄せ、酒や魚などを多く仕入れていたようです。
物流としては、駿河からは塩や魚、瀬戸物(せともの)、畳表(たたみおもて)などが馬に積まれ運び込まれました。 また駿河へは米穀(べいこく)類や生糸(きいと)、木炭、それから信州(しんしゅう)からの産物などを運び出しました。 また、富士川の舟運を利用しての荷物の往(ゆ)き来も盛んでした。 |