みのぶみちは、現在の国道52号にほぼ一致(いっち)する、およそ80kmほどの道のりです。 起点の甲府相生(こうふ・あいおい)から甲斐の国を南下し、万沢(まんざわ・南部町=旧富沢町)を過ぎると駿河に入ります。 万沢からの道筋には次の3通りがありました。 興津(おきつ)へ至るもの、岩淵(いわぶち)に至るもの、岩淵への途中(とちゅう)からそれて興津と岩淵の間にある由比(ゆい)まで行くもの、です。
由比までの道筋は戦国(せんごく)時代の末、武田(たけだ)氏の勢力が駿河まで及(およ)び穴山信君(あなやま・のぶきみ)が江尻城主(えじりじょうしゅ)となったことによって整備が進んだということです。 しかし、武田氏滅亡(めつぼう)とともに衰退(すいたい)して行きました。 江戸に入ると興津までのものと岩淵までのものが重要になりました。
興津・岩淵の両ルートのうちでは、岩淵までのものの方が早くに開かれたと考えられています。 興津へのルートは享保(きょうほう)9年(1724)、甲府勤番(きんばん)が設けられたことにより、甲斐・駿河間の役人の往来に頻繁(ひんぱん)に使われるようになりました。 身延詣(もう)での旅人の場合、上方(かみかた)から来る場合は興津から、江戸からの旅人は岩淵から入るのがふつうでした。
甲斐の国内でも、山之神(やまのかみ)から西島(にしじま)の間は2つの道筋があります。 布施(ふせ)を通り笛吹川(ふえふきがわ)を越えて黒沢(くろさわ)、岩間(いわま)と、富士川東岸(とうがん)を通る道筋と、釜無川(かまなしがわ)を越えて青柳(あおやぎ)、鰍沢(かじかざわ)と、富士川西岸(せいがん)を通るものです。 富士川東岸の方が古くからの道筋でした。
江戸時代に入り富士川舟運(しゅううん)が始まり青柳河岸(かし)、鰍沢河岸が開かれると、次第(しだい)に富士川西岸の道筋が利用されるようになったということです。 しかし、この区間の道筋にはほかにも、市川大門(いちかわだいもん)から帯那(おびな)を越(こ)えて岩間まで出るものや、東岸の黒沢から青柳に渡(わた)るものなどがあり、時代によるさまざまな変化(へんか)があったようです。 |