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第一展示室 保存されていた藤村式校舎の部材
「祝学校・勝沼学校」

いわいがっこう・かつぬまがっこう
[1.祝学校と勝沼学校 | 2.松木輝殷 | 3.下山大工建築物と文化財指定]


2. 松木輝殷(まつき・てるしげ)
 松木運四郎(まつき・うんしろう)という名前は、下山の人は聞いたことがありますか、下山甚句(しもやまじんく)の中で「天で鳴るのは雷(かみなり)様、地で鳴るのは運四郎さん」と歌われていますが、輝殷(てるしげ)はその運四郎の子です。

 運四郎の師匠(ししょう)だったのが、これは聞いたことはありますか、?語彙集川七郎左衛門(いしかわ・しちろうざえもん)、その石川七郎左衛門のお父さんが石川政五郎(まさごろう)、さらにそのお父さんが石川久左衛門(きゅうざえもん)です。 久左衛門は、?語彙集光寺(ぜんこうじ)の山門(さんもん)を造った大工です。 石川政五郎が善光寺の本堂を造って、?語彙集桜(かなざくら)神社の?語彙集楽殿(かぐらでん)の工事を始めようとした人、仕上げたのが石川七郎左衛門です。 七郎左衛門が書いた本があるのを、身延の方だったらご存知ですよね。 町指定文化財の初心伝(しょしんでん)』。 下山大工の中で唯一(ゆいいつ)、本を出版した方が七郎左衛門です。

 その七郎左衛門に就(つ)いて修行を積んだ大工が松木運四郎、運四郎の子が輝殷です。 輝殷の子には栄吉(えいきち)という方がいましたが、お父さんよりも先に亡くなってしまいました。 栄吉の子が光正(てるまさ)という方で、その時に下山から勝沼に移ってきました。 現在の家の人は、松木仁(ひとし)さんといいます。
→松木家・石川家系図

 今回の資料が見つかった始まりは、その仁さんのお宅に「彫刻が見つかりました」ということでこれを見せたら、「じゃあ、うちにきてくれ」ということだったのですが、それが大変なことになってしまったという感じです。

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