松木輝殷建築指図展 トップページ > 松木輝殷建築指図展 > 「祝学校・勝沼学校」

第一展示室 保存されていた藤村式校舎の部材
「祝学校・勝沼学校」

いわいがっこう・かつぬまがっこう
[1.祝学校と勝沼学校 | 2.松木輝殷 | 3.下山大工建築物と文化財指定]


1. (いわい)学校と勝沼(かつぬま)学校


 これは明治9年(1876)に完成した?語彙集(いわい)学校、現在も目の前に祝小学校がありますが、その祝学校の2階のベランダに造られた彫刻(ちょうこく)です<図1>
祝学校 ベランダ彫刻
<図1> 祝学校 ベランダの彫刻
勝沼学校 脇校舎の洋風柱
<図2, 3> 勝沼学校 脇校舎の洋風柱
勝沼学校 脇校舎の洋風柱 細部

 さらに、ここにある柱は明治13年(1880)にできた(かつぬま)学校の柱で、町で保存していたものです<図2, 3>。 建物は昭和30年代に取り壊(こわ)しになり、その時に町の住民の方が、その入口の玄関の扉(とびら)を2枚だけ保存していたものです<図4>

 祝学校の方は昭和(しょうわ)27年(1952)に取り壊しになりました。 取り壊しの時に部材の一部を、この彫刻群を中心としてもらい受けてくれた方がいたのですが、それがそのまま屋根裏に保管されていました。 保管されていた家が倒壊(とうかい)しそうだということで取り壊し始めたら、これらが見つかりました。

 上に「東八代(ひがしやつしろ)郡の祝学校、大工何某(なにがし)」と書いてあります。 実際には大工の名前は確認できなかったのですが、松木輝殷(まつき・てるしげ)が造ったということが、いろいろな記録の中で確認されている建物です。
勝沼学校 入口扉
<図4> 勝沼学校 入口扉

勝沼学校 図面
<図5> 勝沼学校
祝学校 ベランダの彫刻
<図6> 祝学校 ベランダの彫刻
 上の方にあるのが、2階のベランダの上の?語彙集間(らんま)部分に付けられていた彫刻です。 下の方に波の形があります。 これは手すりの部分に付けられていた彫刻です<図6>。 これを刻んだのがその、松木輝殷という大工です。 勝沼の学校も、すぐ近くで建てられたこの祝の学校を見て、「それでは同じ大工さんに頼(たの)もう」ということで、輝殷に頼んで造ってもらったわけです。
祝学校 資料
<図7> 祝学校 資料
祝学校 鶴の彫刻
<図8> 祝学校 鶴の彫刻
 祝の学校は、その取り壊しの直前の姿が写真で残っていて<図7>、そこに写っている彫刻が全部、これらになります。 手すりの部分に見える彫刻がこれです<図8>。 正面に見えるのがこの鶴(つる)です。 今は頸(くび)が欠落していますけど、すでにかなり古い時期に欠損していて、この部分に鶴の頸がありました。 この雲とこの波、これがのちの松木輝殷を見る時に、非常に大事なポイントになることがわかってきました。

次のページへ  松木輝殷トップページにもどる