八日市場から飯富まで
八日市場(ようかいちば)
八日市場は切石宿と交替で下15日の宿役を勤めていました。 『甲斐国志(かいこくし)』によると、鰍沢宿から三里六町、本馬二一二文・軽尻一四八文・人足一〇六文、下山宿へ一里五町、本馬五七文・軽尻四一文・人足二九文の定めでした。 建宿については慶長10(1605)年と考えられています。
大聖寺(だいしょうじ) 真言宗。 開山は円入法印、開基は新羅三郎義光(しんら・さぶろうよしみつ)。 本尊の木造不動明王像は国の重要文化財(昭和58年6月指定)。 この本尊について承安2(1172)年、新羅三郎義光の曾孫(ひまご)の加賀美遠光(かがみ・とおみつ)が、宮中警護の功により高倉天皇から下賜(かし)されたものという伝承があります。
八幡神社 創建は康治9(1142)年と伝えられており、正和元(1312)年、元和9(1615)年、慶安元(1648)、宝永5(1708)年の各再建時の棟札(むなふだ)が残されています。 現存の建物は天保14(1843)年のもので、工匠(こうしょう)は下山村の松木運四郎、望月松兵衛、飯富村の嶋村半兵衛です。
烏森(からすもり)山の烽火場 八日市場・伊沼(いぬま)の西にある標高645mの烏森山の頂上には、武田時代の狼煙(のろし)台のあったところといわれています。 狼煙台を中心に、二重三重の敷石で楕円(だえん)形に囲まれていました。
飯富(いいとみ)
早川入りの村々への経由地として、古くから商業活動が盛んな宿でした。 早川上流から筏(いかだ)流しによって運ばれた材木の置場があり、また対岸の下山村とともに早川渡船(とせん)の交役を勤めた村でもありました。
飯富八幡(はちまん)神社 祭神(さいじん)は天照大神(あまてらすおおみかみ)と八幡大菩薩(だいぼさつ)。 創建は宝永2(1705)年、現在の本殿は天保11(1840)年に建てられたのもので町指定文化財です。
早川の横渡し
飯富宿の南端から、現在の町営住宅飯富団地の脇を経て川岸に出て、新早川橋から150mほど上流のところに早川の横渡しがありました。 かつての早川は水量が多く『甲州一のあばれ川』といわれ、古くから越えるのに苦労したところです。
早川の渡しの起源は寛文9(1669)年、身延詣のため浄財勧進(じょうざいかんじん)によるものです。 江戸時代には春夏は渡舟、秋冬は木橋で渡り、飯富と下山の両方の村で維持(いじ)管理しました。 明治32(1899)年には早川橋がかけられ、新早川橋の開通は昭和43(1968)年です。
早川の横渡しについては『甲斐国志』『並山日記(黒川春村)』『甲斐日記(清水浜臣)』『甲州道中記(霞江庵翠風)』などにも記述が見られます。
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