鰍沢町箱原から西嶋まで
両越(もろこし)の渡し
箱原(はこばら)と西嶋(にしじま)の間にある砥坂(とさか=戸坂)は、みのぶみちのいちばんの難所(なんしょ)でした。 富士川の岸が険しい崖(がけ)で、川沿いに進むことができませんでした。 そのため、『砥坂の渡し』でいったん向こう岸の羽鹿島(はじかじま=鰍沢町)へ渡り、楠甫(くすほ=市川三郷町、旧六郷町)の西側を川沿いに南下し、富士川が東に流れを変えてまもなくのあたりで再び対岸の西嶋へ渡りました。 こちらは『岩崎(やさき)の渡し』と呼ばれ、現在の月見橋から100mほど下流の地点でした。
短い区間のうちに2度富士川を渡ることから両越の渡しと呼ばれました。 起源は元亀年間(1570〜73)にまで遡(さかのぼ)るといわれています。
新道切通(しんみちきりとおし)
両越の渡しが開設された百十数年後に、西岸の断崖(だんがい)を切り開き、桟橋(さんばし)をかけて新道切通が造られ、 鰍沢(かじかざわ)と西嶋が富士川を渡ることなく往(ゆ)き来できるようになりました。 切通は道幅(みちはば)が狭く、徒歩でしか通行できなかったため、そこまで馬で運んだきた荷物は8人がかりで担(かつ)ぎました。 馬が必要な通行や、危険を避(さ)けたい幕府の巡回(じゅんかい)などには、それまで通り対岸へ渡り、下りの場合には鰍沢から下山や大野までの舟運(しゅううん)も利用しました。
『甲斐国志(かいこくし)』には貞享年間(1684〜88)に開通したとありますが、西嶋に残る文書によるとそれより前の寛文6(1666)年、万沢からの帰途、富士川増水のため舟で渡れることができずで西嶋に足止めされた雨宮重兵衛(あめみや・じゅうべえ)という役人が、公費で開削(かいさく)を命じて造らせたということです。
西嶋
冨向山青原院(清原院) 曹洞宗龍雲寺末で開基は小笠原小兼兵衛富清、天文3(1534)年の創建。 欅(けやき)造りで瓦(かわら)ぶき屋根の惣門(そうもん)は天保9(1838)年に再建。 本堂内陣正面欄間(らんま)にある鴟吻頭竜(しふんずりゅう)の彫刻は天保(1837)年、下山大工石川七郎左衛門(いしかわ・しちろうざえもん)68才の時の作。 ともに町指定文化財。
若宮八幡神社 祭神は大鷦鷯命(おおさざきのみこと=仁徳天皇)。 文亀2(1502)年創建の本殿は文政2(1819)年の西嶋の大火で焼失。 現存の本殿は天保2(1831)年の再建で、随神門、同神像とともに町指定文化財。
篝火(かがりび)焼場 西嶋集落の西1.5km、尾根の上にある高さ3.4メートルの小丘で、武田時代の狼煙台(のろしだい)跡という。 有事の際の急を狼煙により、または篝火をたいて国府(こくふ)に告げた。 烽火(ほうか)場の跡は円形の平坦地で、面積は約99.2平方メートル(30坪)。 |