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望月小太郎さん

もちづき・こたろう
 明治44(1911)-平成18(2006) 身延町下山生まれ

なにをしたひと? もっと詳しく… 役職歴・褒章など 望月小太郎さんの著書 関連資料 リンク


なにをしたひと?

 大阪に望月建設株式会社を設立し、財界(ざいかい)で活躍しました。 大阪府議会議員として地元の発展に貢献(こうけん)する一方で、大阪山梨県人会会長も務め、身延町の教育施設などにも多大な浄財(じょうざい)を寄せられました。 身延町の名誉(めいよ)町民です。


望月小太郎さん写真
望月小太郎さん
もっと詳しく…

明治44(1911)年3月16日、下山村(しもやまむら=身延町下山)に生まれました。 下山氏の血を引く母あさの、婿(むこ)の父恒一の次男でした。  生家は下山宿の東本陣(ほんじん)で、これは下山にふたつあった本陣のうちのひとつということです。
下山村立小学校高等科2年のときに、進学の末に就(つ)く一般的な職業、代用教員や役場勤めなどに納得がいかず、高等科以降の進学をしない決断をします。 大正14(1925)年に卒業し、就くべき職を思案していたところ、関東大震災(だいしんさい)後でもあり建築屋さんの景気がたいへんよいことに気づきます。 甲府市外の建築屋へ徒弟(とてい)として奉公(ほうこう)し、5年間下働きしました。


生まれながらの商才? 話のとちゅう
ですが…
 望月小太郎さんは、小学校5年、11〜12歳のころにすでに独力で商売を始めたといいます。 自著『富士を仰(あお)いで』には次のように記されています。 持って生まれた商人ぶりがうかがえます。
 …家事孝養(こうよう)のかたわら学校の児童相手に屋敷の片隅で開業したのです。 “商品”は、学用品やお菓子、マッチ、塩などの日用品で、クジびきつきゴム風船もありました。 仕入れも単身、きもの姿にワラ草履(ぞうり)をはいて、馬力(ばりき)にのったり、帆掛船(ほかけぶね)を利用したりして、鰍沢(かじかざわ)へでかけました…父の顔もあって委託(いたく)販売のようなものでした。 マージは平均して四割をこえ、多いときは五割もありました…学校の休みどきには、売上げが、あさ十円、ひる十円もある大盛況ぶりでした。

 …万引はしょっちゅうありました。 万引常習の上級生をマークしておると、この上級生は、多勢(たぜい)の仲間をつれて買いにくるのです。 少々の万引は結構、オトリの客引になって、見てみぬ振りをしていたものです。
望月小太郎著『富士を仰いで』より

昭和6(1931)年、徴兵(ちょうへい)検査を受けますが、結果は身長が低かったためか「丙種(へいしゅ)」でした。 周りに満蒙(まんもう)青少年義勇軍(ぎゆうぐん)に応募(おうぼ)するもの、東京へ出稼(かせ)ぎに行くものがいるなかで、自分も一旗(ひとはた)あげたいと思っていたそうです。 「こんな草深いところにくすぶっていてはいかん。 若いものは一度、外へ出て働いてきなさい」という母の言葉に励(はげ)まされ、 満州(まんしゅう)行きの相談のために、知人のいる大阪府警察(けいさつ)部の職業紹介課を訪ねました。 しかし、故郷で地道(じみち)に働くようにとのアドバイスを受け帰途(きと)につきます。

大阪から帰る途中、往(い)きの列車で出会った稲枝(いなえ)村(滋賀県彦根市)の村会議員の家を訪ねました。 ここで、月額25円、雨で休んだら1日80銭(せん)差引くという条件で百姓(ひゃくしょう)仕事をします。 勤勉(きんべん)に働きその村での信頼を得(え)、昭和7(1932)年1月には独立して建築業を営むようになりました。 仕事は繁昌(はんじょう)し、人手が足りなくなると、山梨からも大工などを募り20〜30人も連れてきたということです。 1年半ほどで大きな資産を築(きず)きました。

稲枝村の縁故(えんこ)の者から大阪府庄内(しょうない)村(豊中市庄内)での住宅建築を請(う)け負って以後、大阪に視線が向き始めます。 大阪、稲枝の双方で仕事をしていましたが、両立が困難になったため、庄内に独立の店を持つことにし、昭和9(1934)年1月、建築請負(うけおい)業「望月組」を発足(ほっそく)しました。 満23歳のときのことです。 同じ年の9月に室戸(むろと)台風による大きな被害があり、建築業は繁昌(はんじょう)します。 自著『富士を仰いで』には、「私は、この“天恵(てんけい)”の好況にも驕(おご)ることをつつしんで、展開する自らの運命を噛(か)みしめながら、他日(たじつ)のより高い目標をみつめて、精進(しょうじん)を怠(おこた)るまいと心ひそかに思い決めるのでした」と綴(つづ)られています。 地域に受け容(い)れられるために、集会場を建てて寄附(きふ)もしたということです。

昭和10(1935)年、お父さんの探してくれた相手との結婚が決りますが、山梨での婚礼の日をすっかり忘れてしまい、何日か遅れてたどりついたというエピソードがあります。 幸い婚礼は成立し、昭和11(1936)年には長男が誕生しました。 第二次世界大戦敗戦後には、財産税納税のため所持していた600戸余りの貸家(かしや)を売却(ばいきゃく)処分しなければなりませんでした。

昭和22(1947)年、大阪府議会議員選挙に無所属(むしょぞく)で立候補し、最高得票で当選します。 4年後の選挙では残念ながら74票差で次点に終わりました。 昭和23(1948)年の下山中学校新設の際には、体育館建設、グランド野球用ネット等の工事費の大半を寄附しています。 昭和31(1956)年、会社名を現在の望月建設株式会社に変更しました。

望月小太郎さんは、平成18(2006)年1月、94歳で亡くなりました。 平成8(1996)年に身延町総合文化会館がオープンした折にはホールの緞帳(どんちょう)を、また亡くなったのちに完成した下山小学校の新校舎には家族の方を通じて太陽光発電システムを寄附するなど、生涯を通しふるさと身延町および下山地区に思いを寄せてくださいました。

同姓同名 もう少し補足
しますと…
 明治44(1911)年生まれの下山村の望月小太郎さんと、慶応元(1865)年生まれの身延村の望月小太郎さん。 実業家と政治家という異なる分野であっても、それぞれの分野で活躍したふたりが同姓同名なので、少々ややこしいですよね。 下山村の望月小太郎さんは自著のなかで、先輩の望月小太郎さんのことについて触れています。
 …なお、明治時代に政界に君臨(くんりん)し、こと外交問題については最高権威(けんい)として、また、その清節(せいせつ)を謳(うた)われた身延の望月小太郎氏(元代議士)は、いみじくも私と同姓同名ですが、祖父望月茂吉の親友として特に親交のあった人で私の家にて祖父茂吉と高い声で酒をくみかわし乍(なが)ら政治の話を致(いた)して居(お)りました。 同氏はまた明治大帝(たいてい)を敬仰(けいぎょう)することふかくて大帝のご聖徳(せいとく)をたたえまつった著書(ちょしょ)もかずかず遺(のこ)されております…

 …大正14年の初の普通選挙(全県一区)に出馬した望月小太郎氏(身延)の陣営(じんえい)に運動員として参加。 当選。…望月小太郎候補(こうほ)は、さきにも述べたように甲州政界の長老で、きわめて稀(ま)れな謹厳(きんげん)清節の人、かねて私の祖父の先輩として厚誼(こうぎ)を受けていて、私と同姓同名であるのも、いささかこの人にあやかったふしもあると考えておりましたから、私は当然のこと、望月派の陣営であります…
望月小太郎著『富士を仰いで』より

役職歴・褒章など

庄内町消防団長、豊中信用金庫理事、新大阪新聞社取締役(とりしまりやく)、豊中地区更正(こうせい)保護協会会長、大阪山梨県人会会長、大阪音楽大学理事など、数多くの役職を歴任しました。
昭和38(1963)年および昭和42(1967)年、紺綬褒章(こんじゅほうしょう)を受章しました。
昭和44(1969)年、「公益のため私財を寄附した功績により」紺綬褒章を受章しました。
昭和47(1972)年、身延町名誉町民に推戴(すいたい)されました。 また、豊中市市政功労者として表彰されました。
昭和48(1973)年、「公益のため私財を寄附した功績により」紺綬褒章を受章しました。
昭和51(1976)年、大阪府産業功労者として表彰されました。

望月小太郎さんの
著書
貸出可 身延町立図書館にある資料です。
貸出ができます。
館内閲覧 身延町立図書館にある資料です。
貸出はできませんが、
館内で閲覧することができます。
館内閲覧 ■望月小太郎
富士を仰いで
1976(昭和51)年5月
 自己の歩んできた道を綴(つづ)った65歳のときの著作。



関連資料
貸出可 身延町立図書館にある資料です。
貸出ができます。
館内閲覧 身延町立図書館にある資料です。
貸出はできませんが、
館内で閲覧することができます。
館内閲覧 ■大阪山梨県人会[編]
故郷を想う 大阪山梨県人会創立七十周年記念誌
大阪山梨県人会
1988(昭和63)年11月
●大阪の発展に貢献している大阪山梨県人会●ふるさとの思い出「いつ訪ねても美しい故郷」

リンク

望月建設株式会社
 望月小太郎さんが設立した会社です。

【このページの参考文献・資料】

『富士を仰いで』

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