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明治13(1880)年、15歳のときに父の死去により家運(かうん)が傾(かたむ)き、朝から晩まで山や畑での仕事や、時には書きものの仕事をする生活をしていましたが、明晰(めいせき)な頭脳(ずのう)を村中の人たちから嘱望(しょくぼう)され、身延を離れて甲府の山梨学校(のちの山梨師範学校、現在は山梨大学)に給費生(きゅうひせい)として入学しました。 学校には入ったものの、給費だけでは充分に教科書も買えなくて、足りないものは級友から借りて筆写したということです。 明治16(1883)年、18歳で同校の中等師範科を卒業しました。 卒業時の学校名は徽典館(きてんかん)です。
卒業した年の11月、南都留(みなみつる)郡の瑞穂(みずほ)学校(現在の下吉田第一小学校)に奉職(ほうしょく)しますが、1年余りで退職し、明治20(1887)年11月に上京します。 慶應義塾(けいおうぎじゅく)大学に入学し、主に英語と政治を学び、英国議会法などの翻訳(ほんやく)や論評(ろんぴょう)を行ないました。 これが元老院(げんろういん)議官、中井弘の目に留(と)まり、その語学力を評価され総理大臣(そうりだいじん)山縣有朋(やまがた・ありとも)の推挙(すいきょ)でイギリスへ渡ることになります。 明治23(1890)年のことでした。
イギリスではミドル・テンプル大学法院、ロンドン大学で法学・経済・歴史を中心に学びました。 また、ケンブリッジ大学キングス・カレッジでも受講(じゅこう)しました。 2年の国費留学の後も、「日英実業雑誌」の刊行により得た資金で留学を継続(けいぞく)し、バリスター・オブ・ロウ(弁護士)の資格を得ました。 明治28(1895)年フランス、イタリア、オーストリア、ロシアを3ヶ月かけて視察(しさつ)したのち8月に帰国、政府に報告書および論説「戦後外交」を提出しました。
明治29(1896)年、大使山縣有朋の随員(ずいいん)としてロシア皇帝(こうてい)ニコライ二世の戴冠式(たいかんしき)に列席し、その帰途(きと)、単独バルカン、エジプトを視察します。 明治30(1897)年には特使伊藤博文(いとう・ひろぶみ)の随員としてイギリス、ヴィクトリア女王の即位(そくい)60周年記念式典に参列しました。 伊藤からは官界(かんかい)入りを強く望まれましたが、議会政治に志(こころざし)のあった望月小太郎さんは辞(じ)したということです。
明治35(1902)年の第7回衆議院(しゅうぎいん)議員選挙から大正13(1924)年第15回総選挙にわたり、7回当選を果たします。 議会内外において日本の外交上、議会発展上、大きな足跡(そくせき)を残しました。 昭和2(1927)年2月、友人の選挙応援のため山梨に戻っていた望月小太郎さんは、郡内(ぐんない)地方を遊説(ゆうぜい)中に倒れ、東京で療養(りょうよう)に努めたものの、5月に亡くなりました。 61歳でした。
漢詩(かんし)でも知られた望月小太郎さんの号(ごう)は鶯渓(おうけい)で、これは身延山久遠寺(くおんじ)下の鶯谷(うぐいすだに)に因(ちな)みます。 昭和14(1939)年、鶯渓会により、身延山竹之坊(たけのぼう)境内(けいだい)の墓所に記念碑(きねんひ)が建立(こんりゅう)されました。 題字は尾崎行雄(おざき・ゆきお)、撰文(せんぶん)は若槻礼次郎(わかつき・れいじろう)、揮毫(きごう)は身延山第83世法主(ほっす)望月日謙上人という、そうそうたる顔ぶれによるものです。 碑文(ひぶん)の終わり部分には「雄弁(ゆうべん)一世に鳴るといえども口舌(こうぜつ)の徒(と)ならず」とあります。
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