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松木喬さん

まつき・たかし
 慶応元(1865)-大正12(1923) 身延町下山生まれ

なにをしたひと? もっと詳しく… 役職歴・褒章など 関連資料


なにをしたひと?

 師範(しはん)学校を卒業して小学校の先生になり、三十数年にわたり下山地区の教育に力を注ぎました。 退職(たいしょく)後には下山村長も務(つと)めました。 学校林の設定や植林指導(しどう)などの活動も精力的(せいりょくてき)に行ないました。


松木喬さん写真
松木喬さん
もっと詳しく…

慶応元(1865)年2月10日、松木馬三とみきの長男として下山村本町(しもやまむら・ほんまち=身延町下山)に生まれ、幼名は幸造といいました。 幼いころに、下山地区で漢学塾(じゅく)を開くかたわら医療(いりょう)を行なっていた儒者(じゅしゃ)早川貞哉に師事(しじ)し、漢学を学びました。
下山尋常高等小学校卒業記念写真
下山尋常高等小学校卒業記念写真(大正8年)
頌徳碑
頌徳碑(建立当時の写真)
明治19(1886)年に徽典館(きてんかん・のちの山梨県師範学校、現在は山梨大学)師範学科を卒業し、福居小学校(現在の下山小学校)の訓導(くんどう)となりました。 明治20年(1987)11月に中巨摩(なかこま)郡東部高等小学校(現在の甲斐市竜王小学校)に異動しますが、翌年福居小学校の校長として帰任します。 大正11(1922)年4月に依願(いがん)退職し、同年10月まで下山村長を務めました。

学校林の設定、苗木(なえぎ)の育成、植林法の指導などを率先垂範(そっせんすいはん=先頭に立って模範を示すこと)しました。 日露(にちろ)戦勝記念、御大礼(ごたいれい)記念として、生徒とともに5千本余りの杉やひのきを粟倉(あわぐら)に植栽(しょくさい)し、学校基本財産としました。 これが村有林経営の基礎(きそ)となりました。 昭和28(1953)年に下山小学校の新校舎が落成しましたが、村有林から多くの木材が使われたということです。 その折に、下山村の教育や植林指導の尽力(じんりょく)に対し、下山村長より感謝状が贈(おく)られました。

大正12(1923)年10月10日に亡くなりました。 昭和30(1955)年に、その功績(こうせき)を称(たた)え、門下生(もんかせい)や村民総意により、本国寺(ほんごくじ=下山本町)境内(けいだい)に頌徳碑(しょうとくひ)が建てられました。


松木喬さんのこと
ちょっと
ひといき
 同じ下山出身の望月小太郎さんの著書『富士を仰いで』に、松木喬さんと頌徳碑についての一節があります。

…この大銀杏(おおいちょう)樹のかたわらに、ひっそりと御影石(みかげいし)づくりの立派な「松木喬先生頌徳碑」があります。 “昭和三十年十一月二十三日、文部大臣大達茂雄”と刻まれており、碑文(ひぶん)によれば、先生は明治二十二年から三十数年にわたって教育界に精魂(せいこん)を傾けられ、とくに学校林造営などに大きな業績を残されて、大正十二年十月歿(ぼつ)、とあります。 私の小学校五年のときの校長先生であり、のち村長も勤められましたが、身辺(しんぺん)飾(かざ)らぬ素朴(そぼく)な風格(ふうかく)のなかに、いい知れぬなつかしさを、幼い頭脳(ずのう)に吹きこまれております…
望月小太郎著『富士を仰いで』より


役職歴・褒章など

明治44(1911)年11月、25年勤続(きんぞく)の表彰を受けました。
明治45(1912)年5月、下山高等尋常(じんじょう)小学校建築費寄附(きふ)につき、山梨県知事より賞として木杯(もくはい)を下賜(かし)されました。
大正5(1916)年11月、立太子礼(りったいしれい)祝賀(しゅくが)式にあたり、30年勤続の表彰を受けました。
大正8(1919)年11月、勲(くん)八等瑞宝章(ずいほうしょう)を授章しました。

関連資料
貸出可 身延町立図書館にある資料です。
貸出ができます。
館内閲覧 身延町立図書館にある資料です。
貸出はできませんが、
館内で閲覧することができます。
貸出可 ■身延町誌編集委員会[編]
身延町誌
身延町役場
1970(昭和45)年1月
●第十三編「人物」第二章「町の先人」
松木喬先生頌徳碑建立記念誌 松木喬先生頌徳碑建立委員会
1955(昭和30)年1月
●頌徳碑建立趣意書●経過概況●収支概算書●松木喬先生肖像●松木喬先生略歴●頌徳碑写真●碑文(当ページ掲載の写真はこの資料によるもの)

【このページの参考文献・資料】

『松木喬先生頌徳碑建立記念誌』(松木喬先生頌徳碑建立委員会) 『身延町誌』(身延町誌編集委員会)

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