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松木幹之甫さん |
まつき・みきのすけ |
大正9(1920)-平成19(2007) 身延町下山生まれ |
なにをしたひと? 戦前、戦後を通じて町内小中学校の校長などを務(つと)めました。 柔道家(じゅうどうか)でもあり、指導(しどう)者としてもスポーツを通じた健全な青少年の育成に励(はげ)み、戦後は県下に先がけて学校柔道を復活させました。 山梨県柔道連盟(れんめい)会長や関東柔道連合会副会長などを務め、地域を越えて柔道の振興(しんこう)、発展に功績(こうせき)を残しました。 |
松木幹之甫さん |
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もっと詳しく… 大正9(1920)年7月8日、身延町下山本町に生まれました。 祖父(=松木喬 まつき・たかし)、父ともに、南巨摩郡内で小学校校長職を務めるなど、地域の教育に尽力(じんりょく)した人物でした。 |
昭和10(1935)年4月、山梨師範(しはん)学校に入学、ここで柔道と出会います。 昭和15(1940)年に同校を卒業すると、大月東尋常(じんじょう)小学校で教職に就き、同時に県立都留中学校嘱託(しょくたく)の柔道教師となりました。 昭和16(1941)年に徴兵(ちょうへい)され横須賀(よこすか)海兵団に入団、その後、土浦海軍航空隊、三重海軍航空隊で予科(よか)練習生の教育、柔道指導に携(たずさ)わりました。 昭和19(1944)年には海軍兵曹長(そうちょう)に昇任しています。 昭和20(1945)年、身延国民学校訓導(くんどう)に復職します。 昭和22(1947)年には身延中学校教諭、昭和29(1954)年には身延小学校教頭、昭和40(1965)年には身延中学校教頭、昭和46(1971)年には身延小学校校長を務めます。 身延小は校長在任中の昭和54(1979)年、身延西小学校になりました。 昭和55(1980)年3月、40年にわたり南巨摩の学校教育および柔道を通じた人間教育に尽力(じんりょく)した松木さんは退職(たいしょく)の日を迎(むか)えます。 最後の3年間は身延西小学校の新校舎建設(けんせつ)に主体的に取り組みました。 平成19(2007)年11月28日、88歳で亡くなりました。 |
身延西小学校の新校舎建設 |
木造校舎のぬくもり なつかしいな・・・ |
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昭和24(1949)年建築された校舎は、昭和52(1977)年、県の木造校舎耐力度(たいりょくど)調査において、危険(きけん)校舎として指定されます。当時の校長であった松木さんは新校舎建設に主体的に取り組み、PTAや町および地域住民の協力と理解を得て、当時としては県下髄一(ずいいち)の先端設備(せんたんせつび)を持った近代的校舎の完成へと結実(けつじつ)したのでした。 松木さんは竣工(しゅんこう)の翌年、昭和55(1980)年3月に定年を迎えました。 | ||||||||||||||||
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柔道とともに… 松木さんと柔道との出会いは山梨師範学校に入学した昭和10(1935)年。 その翌年には早くも初段に昇(しょう)段、その後も着実に段を重ね、昭和59(1984)年には山梨県4人目の8段に昇段します。 山梨県の代表選手としては関東および全国高段者大会、全日本柔道選手権大会関東大会に出場、また国民体育大会でも常連(じょうれん)でした。 県内においても県最高の大会に常に出場するなど活躍(かつやく)しました。 その後は監督・役員・審判(しんぱん)長としても、上記のような各種大会に数多く出場しています。 昭和61(1986)年に山梨県で開催(かいさい)された第41回国民体育大会『かいじ国体』で、身延町は柔道競技会場となりました。 開催地に決定した昭和53(1978)年当時、県の体育協会理事および選手強化対策本部員だった松木さんは、地域の選手強化に多大な貢献をしました。 『かいじ国体』では身延町実行委員会副会長、山梨県実行委員会参与および競技役員を務めました。 松木さんたち関係者の努力と県民の声援に応え、山梨県柔道チームは国体初の開催県優勝を果たしたのです。 |
130畳敷の身延中学校武道場と大柔道家 |
へえぇ こんなこと知ってた? |
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戦後、県下でいち早く、昭和28(1953)年に身延町柔道連盟(れんめい)を設立した松木さんは、身延中学校の武道(ぶどう)場建設にとりかかります。 この武道場は130畳敷(じょうじき)という大きさで、身延山久遠寺(くおんじ)休憩所(きゅうけいじょ)の廃材(はいざい)を使って建設されました。 竣工記念式典は、かの三船久蔵十段を招待し盛大(せいだい)に開催されました。 | |||
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柔道の心を伝える 松木さんは自身が柔道家であるだけでなく、指導(しどう)者としてもすばらしい功績(こうせき)を遺(のこ)しました。 昭和25(1950)年から46(1971)年まで、子どもから一般までが参加できる「暑中稽古(しょちゅうげいこ)・寒稽古(かんげいこ)」を続けて開催、幅(はば)広い年齢層(ねんれいそう)の育成・指導に当たりました。 また、「郡下町村対抗柔道大会」「全日本柔道選手権大会関東予選」などの名だたる大会を身延町内に誘致(ゆうち)し、県下に「柔道の町・身延」の名を広めたのです。 松木さんが指導した子弟(してい)たちの中からは多くの高段者が生まれています。 その数は、七段3名、六段15名、五段以下は100有余名というたいへんな人数に及びました。 |
せいりょくぜんよう・じたきょうえい 『精力善用自他共栄』とは |
ふむふむ。 柔道って深い! |
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これは松木さんの学んだ講道館(こうどうかん)柔道の創始者(そうししゃ)、嘉納治五郎(かのう・じごろう)さんが確立(かくりつ)した柔道の根本原理(こんぽんげんり)であり、その道標(みちしるべ)ともなる言葉です。 松木さんもこの言葉を信条(しんじょう)としていました。 | ||
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嘉納さんは東京高等師範(しはん)学校などの校長を務めた教育者でもありました。 柔道の偉大(いだい)な師であり、教育者の先達(せんだつ)が掲(かか)げた道標は、松木さんの信条になりました。 学校教育、社会教育、そして柔道。 その三つを繋(つな)ぐこの信条から、松木さんが理想とし目指したものが浮(う)かび上がってくるようです。 |
【このページの参考文献・資料】 『山梨柔道連盟創立50周年記念誌』( 山梨県柔道連盟) 『大日本柔道史』(1939 講道館) 『嘉納治五郎』(1997日本図書センター) 『柔道回顧録』(1981講談社) 『山梨県柔道連盟WEBサイト』 『講道館WEBサイト』 |