トップページ > 先人たちの部屋 > 藤井日静さん |
藤井日静さん |
ふじい・にちじょう |
明治12(1879)-昭和46(1971) 東京都千代田区神田錦町生まれ |
明治23(1890)年に得度、教仁と改名し、明治25(1892)年、鏡中条(かがみなかじょう=南アルプス市)の長遠寺の望月日謙(にっけん)上人の門に入りました。 日謙上人は昭和8(1933)年、第83世法主に就任したお坊さんです。 明治28(1895)年、山梨中檀林(だんりん)に学び、明治31(1898)年には東京錦城(きんじょう)中学校に転入し、明治34(1901)年には東京正則(せいそく)英語学校高等部に入学、明治36(1903)年に卒業します。 日露(にちろ)戦争勃発(ぼっぱつ)により旅順(りょじゅん)攻囲(こうい)軍として出征(しゅっせい)、のちに傷病(しょうびょう)のため帰還(きかん)します。 明治40(1907)年には祖山学院(そざんがくいん=今の身延山大学)を卒業します。 明治41(1908)年に風間幸さんと結婚しました。
泉能寺、満願寺(京都)の住職をつとめたのち、身延山執事(しつじ)、東京身延山別院主管(しゅかん)、身延山総務などを歴任し、昭和34(1959)年7月身延山第86世法主、一乗院日静上人となります。 日遠上人の突然の辞任(じにん)の後のことで、『身延山史』には「当時久遠寺の財政状況は頗(すこぶ)る逼迫(ひっぱく)していたが、これに加えて、就任の歳には、八月十四日の七号台風・九月十六日の十五号台風(伊勢湾台風)の両度にわたる被害もあって、新法主前途(ぜんと)極めて多難であった」とあります。 しかし、日静上人は「新しい山務委員や職員の協力を得ながら」「台風の被害をうけた祖廟(そびょう)域の整備を進め、財政建て直しをはかるとともに、荒廃(こうはい)した山林の復興(ふっこう)を企(くわだ)てて植林を積極的に行なった」ということです。 昭和35(1960)年身延山街頭(がいとう)布教(ふきょう)隊を組織し各地に派遣(はけん)し、自分自身も陣頭(じんとう)に立ってこれを指揮しました。 日静上人は、法主となるずっと前の大正9(1920)年頃にも、宗門初の映画布教を行なっており、大きな反響を呼んだのだそうです。 日蓮聖人の生涯を描いた映画は全国各地で上映され、大正10(1921)年の時点で上映回数125回、観客総数は16万4900人を数えたそうです。 昭和38(1963)年第38代日蓮宗管長(かんちょう)、日本仏教会管長に就任しました。 世界連邦平和運動を積極的に進め、昭和40(1965)年には世界連邦世界大会に名誉(めいよ)団長として渡米し、“道義(どうぎ)の実践(じっせん)”を提唱しました。 また、同じ年に身延山短期大学・高等学校の校舎と大講堂の建築、身延山病院の新築移転も果たしています。 昭和44(1969)年、日静上人が大会会長となって、世界連邦平和促進(そくしん)宗教者大会を身延山で開催しました。 このとき、『身延宣言』が出されました。 |
世界連邦運動とは | 話のとちゅう ですが… |
|||
「世界連邦」とういのは、民族や宗教などの対立をなくし、世界をひとつの国家と考えて、すべての人類をその国民とする、そんな国家のことをいいます。 「世界連邦運動」は、そんな国家を目指す国際的な非政府組織(ひせいふそしき)で、日本において第二次大戦終戦直後に尾崎行雄(おざき・ゆきお)ら有志議員が提唱しました。 昭和23(1948)年には世界連邦建設同盟(どうめい)が結成され、尾崎行雄が会長に就任しました。 第5代の会長は湯川秀樹(ゆかわ・ひでき)が務めています。 現在は世界連邦運動協会と名を変え、その活動を推進(すいしん)する団体のひとつが世界連邦日本宗教委員会です。 日静上人が大会会長を務めた「世界連邦平和促進宗教者大会」(略称・世界連邦身延大会)は、昭和44(1969)年8月21日と22日の2日間、身延山久遠寺に於(お)いて、「世界の平和と日本」をテーマに開催されました。 このときの大会宣言、『身延宣言』の要旨(ようし)は以下のようなものです。 |
||||
|
||||
身延町は世界連邦都市宣言自治体、全国協議会加盟自治体です(昭和44年より)。 |
道義の実践 | さらに もうひとつ |
|||
昭和40(1965)年にサンフランシスコで開かれた第12回世界連邦世界大会の合同全体会議にて、藤井日静上人は「平和のための道義とその実践について」と題して講演をし、のちの世界連邦同盟理事会で異議なく採択(さいたく)されました。 その講演の一部を次に紹介します。 |
||||
|
日蓮聖人の生誕750年にあたる昭和46(1971)年2月、小湊(こみなと=千葉県鴨川市)の誕生寺(たんじょうじ)にて慶讃(きょうさん)大法要の大導師を勤めました。 また、綱脇龍妙(つなわき・りゅうみょう)上人の本葬において大導師を勤めました。 日静上人はこのころから病を得て、12月27日久遠寺において遷化(せんげ)しました。 在山13年、93歳でした。 |
親子で法主 | ふむふむ… |
平成11(1999)年から18(2006)年にかけて、第91世法主を務めた藤井日光(ふじい・にっこう)上人は、日静上人の明治42(1909)年生まれの長男です。 日光上人は平成14(2002)年、身延山久遠寺五重塔を発願(ほつがん)しましたが、完成を待たず平成18(2006)年9月に遷化(せんげ)されました。 しかしながら97歳と、長寿をまっとうされたことでは、お父さんの日静上人と同じです。 この下の「関連資料」のコーナーにも掲載していますが、日静上人は昭和41(1966)年に『身延鑑(みのぶかがみ)』の復刊(ふっかん)を行ないました。 平成13(2001)年、開宗750年を記念し『新訂(しんてい)身延鑑』を発刊したのが日光上人、親子のつながりがこんなところにもありました。 |
役職歴・褒章など 昭和41(1966)年、私学振興(しんこう)の功労により勲(くん)三等瑞宝(ずいほう)章を授与されました。 昭和43(1968)年、身延町名誉町民に推戴(すいたい)されました。 |
関連資料 |
|
|||||||||||||||||||||||||
|
【このページの参考文献・資料】 『身延山史』(身延山久遠寺) 『身延日静上人』(身延山久遠寺) 『正法を掲げて』(身延山久遠寺) 『身延町誌』(身延町誌編集委員会) |