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藤井日静さん

ふじい・にちじょう
 明治12(1879)-昭和46(1971) 東京都千代田区神田錦町生まれ

なにをしたひと? もっと詳しく… 役職歴・褒章など 藤井日静さんの著書 関連資料


なにをしたひと?

 身延山久遠寺(くおんじ)の法主(ほっす)となったお上人(しょうにん)さんで、日蓮宗(にちれんしゅう)の発展(はってん)に尽(つ)くしたほか、地域医療(ちいきいりょう)や教育、国際親善(こくさいしんぜん)にも貢献(こうけん)しました。 身延町の名誉(めいよ)町民です。


藤井日静さん写真
藤井日静さん
もっと詳しく…

明治12(1879)年10月1日、神田錦町(かんだにしきちょう)陸軍御用達(ごようたし)の薪炭問屋(しんたんどんや)「備後(びんご)屋」藤井太郎太の三男として生まれました。 幼名は三男(みつを)といいました。 お父さんは元備後(びんご=大分県)臼杵(うすき)藩主(はんしゅ)稲葉家の祐筆(ゆうひつ)で、明治維新(いしん)ののち商家に転じました。 両親とも法華経(ほけきょう)に深く帰依(きえ)していたそうです。
明治23(1890)年に得度、教仁と改名し、明治25(1892)年、鏡中条(かがみなかじょう=南アルプス市)の長遠寺の望月日謙(にっけん)上人の門に入りました。  日謙上人は昭和8(1933)年、第83世法主に就任したお坊さんです。 明治28(1895)年、山梨中檀林(だんりん)に学び、明治31(1898)年には東京錦城(きんじょう)中学校に転入し、明治34(1901)年には東京正則(せいそく)英語学校高等部に入学、明治36(1903)年に卒業します。 日露(にちろ)戦争勃発(ぼっぱつ)により旅順(りょじゅん)攻囲(こうい)軍として出征(しゅっせい)、のちに傷病(しょうびょう)のため帰還(きかん)します。 明治40(1907)年には祖山学院(そざんがくいん=今の身延山大学)を卒業します。 明治41(1908)年に風間幸さんと結婚しました。

泉能寺、満願寺(京都)の住職をつとめたのち、身延山執事(しつじ)、東京身延山別院主管(しゅかん)、身延山総務などを歴任し、昭和34(1959)年7月身延山第86世法主、一乗院日静上人となります。 日遠上人の突然の辞任(じにん)の後のことで、『身延山史』には「当時久遠寺の財政状況は頗(すこぶ)る逼迫(ひっぱく)していたが、これに加えて、就任の歳には、八月十四日の七号台風・九月十六日の十五号台風(伊勢湾台風)の両度にわたる被害もあって、新法主前途(ぜんと)極めて多難であった」とあります。 しかし、日静上人は「新しい山務委員や職員の協力を得ながら」「台風の被害をうけた祖廟(そびょう)域の整備を進め、財政建て直しをはかるとともに、荒廃(こうはい)した山林の復興(ふっこう)を企(くわだ)てて植林を積極的に行なった」ということです。

昭和35(1960)年身延山街頭(がいとう)布教(ふきょう)隊を組織し各地に派遣(はけん)し、自分自身も陣頭(じんとう)に立ってこれを指揮しました。 日静上人は、法主となるずっと前の大正9(1920)年頃にも、宗門初の映画布教を行なっており、大きな反響を呼んだのだそうです。 日蓮聖人の生涯を描いた映画は全国各地で上映され、大正10(1921)年の時点で上映回数125回、観客総数は16万4900人を数えたそうです。

昭和38(1963)年第38代日蓮宗管長(かんちょう)、日本仏教会管長に就任しました。 世界連邦平和運動を積極的に進め、昭和40(1965)年には世界連邦世界大会に名誉(めいよ)団長として渡米し、“道義(どうぎ)の実践(じっせん)”を提唱しました。 また、同じ年に身延山短期大学・高等学校の校舎と大講堂の建築、身延山病院の新築移転も果たしています。

昭和44(1969)年、日静上人が大会会長となって、世界連邦平和促進(そくしん)宗教者大会を身延山で開催しました。 このとき、『身延宣言』が出されました。

世界連邦運動とは 話のとちゅう
ですが…
 「世界連邦」とういのは、民族や宗教などの対立をなくし、世界をひとつの国家と考えて、すべての人類をその国民とする、そんな国家のことをいいます。
 「世界連邦運動」は、そんな国家を目指す国際的な非政府組織(ひせいふそしき)で、日本において第二次大戦終戦直後に尾崎行雄(おざき・ゆきお)ら有志議員が提唱しました。 昭和23(1948)年には世界連邦建設同盟(どうめい)が結成され、尾崎行雄が会長に就任しました。 第5代の会長は湯川秀樹(ゆかわ・ひでき)が務めています。 現在は世界連邦運動協会と名を変え、その活動を推進(すいしん)する団体のひとつが世界連邦日本宗教委員会です。

 日静上人が大会会長を務めた「世界連邦平和促進宗教者大会」(略称・世界連邦身延大会)は、昭和44(1969)年8月21日と22日の2日間、身延山久遠寺に於(お)いて、「世界の平和と日本」をテーマに開催されました。 このときの大会宣言、『身延宣言』の要旨(ようし)は以下のようなものです。

大会宣言
 いかなる宗教も、人間の心の平安と世界の平和とを念願(ねんがん)しないものはない。 核兵器(かくへいき)の脅威(きょうい)によって人類共滅(きょうめつ)の恐れさえあるのを思うにつけ、宗教者は宗派の垣(かき)をこえて結集し人類が生きるための大道(だいどう)を開かねばならない。 われわれは全世界的に結合し、法治(ほうち)共同体としての世界連邦をつくり、戦争のない一つの世界を実現しなければならない。
 ここ身延山において、われわれ日本の宗教者は一堂に会し、諸宗教共通の広場を開発し、宗教協力の実を示すことを得た。 まことに未曽有(みぞう)のことであり、新しい歴史をつくるものである。 われわれはここに、世界連邦の方式による恒久(こうきゅう)平和への道を実践(じっせん)することを誓(ちか)うとともに、これに協力するよう全世界の善意(ぜんい)の人々に呼びかける。
『身延町誌』より
 身延町は世界連邦都市宣言自治体、全国協議会加盟自治体です(昭和44年より)。

道義の実践 さらに
もうひとつ
 昭和40(1965)年にサンフランシスコで開かれた第12回世界連邦世界大会の合同全体会議にて、藤井日静上人は「平和のための道義とその実践について」と題して講演をし、のちの世界連邦同盟理事会で異議なく採択(さいたく)されました。 その講演の一部を次に紹介します。

平和のための道義とその実践
 世界連邦実現の障害となる宗教宗派、及びイデオロギー紛争(ふんそう)を解決する為(ため)の研究機関を設置して頂(いただ)くよう提案します。
 世界連邦の崇高(すうこう)であり偉大である理想実現には、その価値の高さに比例した偉大な努力を要します。 人類は過去何千年に亘(わた)って民族的・国家的・イデオロギー的・宗教的自我(じが)がありますが、これらは全人類共通の幸福達成の理念に抵触(ていしょく)する場合がありますので、謙虚(けんきょ)に反省し修正しなくてはなりません。 それには優(すぐ)れた英智(えいち)、絶大なる慈悲(じひ)、高邁(こうまい)なる精神、そして果敢(かかん)なる勇気を不可欠とします…
…吾々(われわれ)が首題(しゅだい)の如(ごと)き提案をする理由の一つは、南北ベトナムの紛争について感ずるところがあるからであります。 この紛争の背後にはイデオロギーの問題があり、宗教の問題があります。 こうした現実の問題に手をつけることは骨のおれることでありますが、吾々は何らかの手を打たなければなりません。 対立した抗争を解くには、その対立を越えた次元の高い理念からの説得しか方法はないと思います…
…紛争の複雑性は速(すみ)やかな解決はできないかも知れませんが、この提案が採択され有力な同志の努力で当事国間の理解が得られ現代の悲劇に終止符(しゅうしふ)を打つことが出来たならば、世界連邦運動は大きく前進し世界の人々から圧倒的な支援を受けるであろうと信じ、大会に参加された同志の高邁な精神に訴え切(せつ)にその採択を希(ねが)う者であります。
身延山久遠寺編『正法を掲げて』より

日蓮聖人の生誕750年にあたる昭和46(1971)年2月、小湊(こみなと=千葉県鴨川市)の誕生寺(たんじょうじ)にて慶讃(きょうさん)大法要の大導師を勤めました。 また、綱脇龍妙(つなわき・りゅうみょう)上人の本葬において大導師を勤めました。 日静上人はこのころから病を得て、12月27日久遠寺において遷化(せんげ)しました。 在山13年、93歳でした。

親子で法主 ふむふむ…
 平成11(1999)年から18(2006)年にかけて、第91世法主を務めた藤井日光(ふじい・にっこう)上人は、日静上人の明治42(1909)年生まれの長男です。 日光上人は平成14(2002)年、身延山久遠寺五重塔を発願(ほつがん)しましたが、完成を待たず平成18(2006)年9月に遷化(せんげ)されました。 しかしながら97歳と、長寿をまっとうされたことでは、お父さんの日静上人と同じです。
 この下の「関連資料」のコーナーにも掲載していますが、日静上人は昭和41(1966)年に『身延鑑(みのぶかがみ)』の復刊(ふっかん)を行ないました。 平成13(2001)年、開宗750年を記念し『新訂(しんてい)身延鑑』を発刊したのが日光上人、親子のつながりがこんなところにもありました。

役職歴・褒章など

昭和41(1966)年、私学振興(しんこう)の功労により勲(くん)三等瑞宝(ずいほう)章を授与されました。
昭和43(1968)年、身延町名誉町民に推戴(すいたい)されました。

藤井日静さんの
著書
貸出可 身延町立図書館にある資料です。
貸出ができます。
館内閲覧 身延町立図書館にある資料です。
貸出はできませんが、
館内で閲覧することができます。
館内閲覧 ■身延山久遠寺[編]
正法を掲げて
身延山久遠寺
1966(昭和41)年11月
 藤井日静上人の米寿(べいじゅ)を記念しての刊行。 上人の法話に加え、寄せられた多数の祝辞(しゅくじ)を掲載(けいさい)している。 巻頭には上人の多方面での活動を伝える写真の数々。
■藤井日静
救国の宗教を生きる
教育新潮社
1964(昭和39)年

■藤井日静
霊中肉中法主法話
身延山久遠寺
1959(昭和34)年7月

関連資料
貸出可 身延町立図書館にある資料です。
貸出ができます。
館内閲覧 身延町立図書館にある資料です。
貸出はできませんが、
館内で閲覧することができます。
貸出可 ■身延日静上人編集委員会
身延日静上人
身延山久遠寺
1972(昭和47)年4月
 日静上人の御本葬に際し発行された追悼(ついとう)集。 上人の足跡を写真や年譜(ねんぷ)で振り返り、寄せられた弔辞(ちょうじ)や多くの方々からの追悼文を掲載している。 
館内閲覧 ■身延山久遠寺[編]
身延鑑
身延山久遠寺
1966(昭和41)年11月
 『身延鑑(みのぶかがみ)』は江戸時代、元禄(げんろく)のころの上中下三巻からなる身延山参詣の手引書で、当時の身延のようすを伝える貴重な資料。 希少であった木版印刷のこの書物を、藤井日静上人の米寿(べいじゅ)を機に再版。 日静上人が序文を寄稿(きこう)している。
 身延山久遠寺編のこの書は平成13(2001)年、翌年の立教開宗七百五十年にあわせ新訂版が発行されている。
貸出可 ■身延山久遠寺[編]
身延山史
身延山久遠寺
1973(昭和48)年6月
 身延山開闢(かいびゃく)七百年記念事業として大正12(1923)年発行の『身延山史』を復刻、その後の50年の経緯を『続身延山史』として一冊に併(あわ)せて編集したもの。
●[続身延山史]第三章第三節「歴代の法主」
貸出可 ■身延町誌編集委員会[編]
身延町誌
身延町役場
1970(昭和45)年1月
●第十一編第一章第六節「明治以後の身延山(六)世界連邦平和運動と身延山」●第十三編第一章「名誉町民」

【このページの参考文献・資料】

『身延山史』(身延山久遠寺) 『身延日静上人』(身延山久遠寺) 『正法を掲げて』(身延山久遠寺) 『身延町誌』(身延町誌編集委員会)

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