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綱脇龍妙さん |
つなわき・りゅうみょう |
明治9(1876)-昭和45(1970) 福岡県宗像市生まれ |
高等小学校卒業後の明治24(1891)年、和田屋という醤油醸造業(しょうゆじょうぞうぎょう)兼質古着商に奉公(ほうこう)しましたが、ひ弱な体質と過酷(かこく)な労働により3ヶ月ほどで肺結核(はいけっかく)を患(わずら)って帰郷(ききょう)。 「余命(よめい)3年、空気のいいところで10年」、と告げられましたが、療養(りょうよう)の末、病(やまい)から快復(かいふく)することができました。 療養中に宗教心に目覚めます。 明治25(1892)年1月檀那寺(だんなでら)、法性寺(ほうしょうじ)の住職(じゅうしょく)日良(にちりょう)上人より龍妙日琢(りゅうみょうにったく)の僧名をもらい出家(しゅっけ)します。 明治26(1893)年夏、上人が福井県の妙泰寺(みょうたいじ)に転住するのに随行(ずいこう)しました。 この頃、生涯(しょうがい)を決定づけることとなる常不軽菩薩品(じょうふきょうぼさつほん)という法華経(ほけきょう)のひとつに出会い、「人間礼拝(らいはい)」の思想が生まれます。 妙泰寺での3年あまりの修行(しゅぎょう)の後、勉学のため京都へ行き、檀林(だんりん=仏教の学問所)で6年半学びました。 明治37年(1904)5月、日露(にちろ)戦争のさなか福井の妙泰寺に戻り、岩崎貞(さだ)さんと結婚(けっこん)します。 翌年東京へ。 哲学館(てつがくかん=現在は東洋大学)で学びました。 東京では、小石川茗荷谷(みょうがだに)にある寄宿舎(きしゅくしゃ)に入りました。 龍妙上人はここで共同生活していた2人の友人と明治39(1906)年7月、身延山を訪れ、三門付近に群がるらい患者(かんじゃ)のようすを目(ま)の当たりにします。 山形からきたという15〜16歳の少年との出会いに深く心を動かされました。 祖廟(そびょう=日蓮聖人のお墓)に参籠(さんろう)し、日蓮聖人の啓示(けいじ)を受け救らいの決意をします。 |
ハンセン病とは | すこし説明 しますね |
らい菌(きん)の感染(かんせん)によりおこる病気で、以前はらい病、ハンセン氏病とも呼ばれていました。 ハンセンは、明治6(1873)年にらい菌を発見したノルウェイの医師の名前です。 鼻や気道から感染しますが、多くの人は免疫(めんえき)があり感染せずにすみます。 潜伏(せんぷく)期間は数年から数十年。 らい菌に対する免疫の少ない人が感染すると、結節(けっせつ)という腫瘍(しゅよう)が体や手足にでき変形し、眉毛(まゆげ)や頭髪(とうはつ)が抜けるなど、顔貌(がんぼう)に独特(どくとく)の様相(ようそう)が現れます。 免疫のある人が免疫低下により感染する場合は、皮膚(ひふ)に紅色斑(こうしょくはん)が現れます。 結節、斑紋(はんもん)には知覚麻痺(ちかくまひ)が伴(ともな)います。 古くから感染者は差別され、近代になっても外見にはっきり表われるため差別が続きました。 遺伝病(いでんびょう)と考えられていため感染者の家族も差別の対象(たいしょう)でした。 のちに感染病であることが証明(しょうめい)されるのですが、不治(ふじ)の病であるとの理由で恐(おそ)れられ、差別や偏見(へんけん)がさらに激(はげ)しくなりました。 症状(しょうじょう)が梅毒(ばいどく)に似ていることもあって、それも差別の一因(いちいん)となった時期もあります。 明治33(1900)年の内務省(ないむしょう)調査では感染者数は約3万人とされていますが、実際にはその2倍はいたとも考えられています 現在では、感染しても初期なら完治(かんち)でき、悪化(あっか)した場合でも進行を止めることができます。 世界では年間約30万人の新規(しんき)患者が報告されていますが、日本においては年に5名以下ということです。 国立ハンセン病療養所が13ヶ所、私立が2ヶ所あり、入所者数は平成18(2006)年12月現在3000名弱で、その多くが高齢者(こうれいしゃ)です。 ほとんどの人がすでに治癒(ちゆ)しているものの、社会復帰(ふっき)が困難(こんなん)なため支援(しえん)を受けている実情があります。 |
龍妙上人は、御殿場(ごてんば=静岡県)のらい療養所「復生(ふくせい)病院」(明治22年設立)を視察(しさつ)のため訪問(ほうもん)します。 東京では内務省に通い、東京にきていた久遠寺(くおんじ)法主(ほっす)の豊永日良上人に直談判(じかだんぱん)して協力を得ます。 同じ明治39(1906)年の10月12日、日本初の私立らい療養所『身延深敬園(じんきょうえん)』を創立しました。 身延山参拝(さんぱい)からわずか3ヶ月後のことです。 身延山内の身延川沿(ぞ)いに仮(かり)病室が建てられ、川原で生活していた13名を収容(しゅうよう)しました。 思い入れのあった常不軽菩薩の「我深敬汝等」─我(われ)深く汝等(なんじら)を敬(うやま)う─という教えから『深敬園』と名づけました。 当初は理解者が少なく多くの迫害(はくがい)や中傷(ちゅうしょう)が加えられ、国の社会福祉(ふくし)施策(しさく)はまったくなく、皇室(こうしつ)のご仁慈(じんじ)以外のすべての経費(けいひ)は私財(しざい)と托鉢(たくはつ)、一厘講(いちりんこう)、篤志家(とくしか)の寄付(きふ)で賄(まかな)われました。 一厘講というのは、毎日一厘ずつためたお金を寄付してもらうもので、一厘は今の一円くらいです。 寄付を求めて山梨県内だけでなく東京、静岡、愛知、大阪、岡山、福井などへも出かけました。 大正9(1920)年財団法人(ざいだんほうじん)の認可(きょか)を得(え)ます。 昭和5(1930)年には九州に分院を開設しますが、こちらは昭和17(1942)年軍事保護院(ぐんじほごいん)の要請(ようせい)により閉院し、敷地(しきち)を提供(ていきょう)しました。 妻の貞さんは大正10(1921)年に福井から身延へ移ってきました。 深敬園の看護婦長(かんごふちょう)として留守(るす)を守り、昭和32(1957)年9月79歳で亡くなりました。 龍妙上人は昭和45(1970)年12月に95歳で逝去され、娘(むすめ)の美智(みち)さんが深敬園の後継者(こうけいしゃ)になりました。 孫の直美(なおみ)さんもインドのアジア救らい病院で働くなど、龍妙上人の心を受け継ぎ、伝えています。 |
身延深敬園(みのぶじんきょうえん) | もう少し補足です |
明治39(1906)年に綱脇龍妙さんが西谷(にしだに)に創設(そうせつ)したハンセン病救護(きゅうご)施設(しせつ)『身延深敬園』は日本では民間で最初のハンセン病救護事業(じぎょう)で、広く海外にまで知れ渡りました。 創設当初は『身延深敬病院』といい、昭和17(1942)年『身延深敬園』に改名(かいめい)されました。 大正9(1920)年7月、財団法人になりました。 昭和45(1970)年10月には高松宮(たかまつのみや)さまご臨席(りんせき)のもと、創立(そうりつ)65周年(しゅうねん)記念式典(しきてん)が行なわれました。 特に厚(あつ)いご同情を賜(たまわ)った貞明皇后(ていめいこうごう)の歌碑(かひ)が園内にあります。 深敬園は平成4(1992)年に閉鎖(へいさ)され、現在は身体障害者養護(ようご)施設『かじか寮(りょう)』になりました。 |
関連資料 |
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リンク
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【このページの参考文献・資料】 『郷土史にかがやく人々 集合編(U)』(青少年のための山梨県民会議) 『身延町誌』(身延町誌編集委員会) 『日蓮宗ポータルサイト(WEBサイト)』 『綱脇さん基金(WEBサイト)』 |