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綱脇龍妙さん

つなわき・りゅうみょう
 明治9(1876)-昭和45(1970) 福岡県宗像市生まれ

なにをしたひと? もっと詳しく… 役職歴・褒章など 綱脇龍妙さんの著書 関連資料 リンク


なにをしたひと?

 日本人として初めての民間のハンセン病療養所(りょうようじょ)、『身延深敬園(じんきょうえん)』をつくったお坊さんで、60年以上もの長い年月にわたってハンセン病患者(かんじゃ)の救済(きゅうさい)に尽(つ)くした人です。 身延町の名誉(めいよ)町民です。


綱脇龍妙さん写真
綱脇龍妙さん
もっと詳しく…

明治9(1876)年1月24日、福岡県宗像(むなかた)郡池野村(旧玄海町=宗像市)に生まれました。 幼名は順作といいました。 お父さんは農業を営んでいましたが漢学の素養(そよう)があり、法華経(ほけきょう)に篤(あつ)い信仰(しんこう)を持つ人でした。
高等小学校卒業後の明治24(1891)年、和田屋という醤油醸造業(しょうゆじょうぞうぎょう)兼質古着商に奉公(ほうこう)しましたが、ひ弱な体質と過酷(かこく)な労働により3ヶ月ほどで肺結核(はいけっかく)を患(わずら)って帰郷(ききょう)。 「余命(よめい)3年、空気のいいところで10年」、と告げられましたが、療養(りょうよう)の末、病(やまい)から快復(かいふく)することができました。

療養中に宗教心に目覚めます。 明治25(1892)年1月檀那寺(だんなでら)、法性寺(ほうしょうじ)の住職(じゅうしょく)日良(にちりょう)上人より龍妙日琢(りゅうみょうにったく)の僧名をもらい出家(しゅっけ)します。 明治26(1893)年夏、上人が福井県の妙泰寺(みょうたいじ)に転住するのに随行(ずいこう)しました。 この頃、生涯(しょうがい)を決定づけることとなる常不軽菩薩品(じょうふきょうぼさつほん)という法華経(ほけきょう)のひとつに出会い、「人間礼拝(らいはい)」の思想が生まれます。 妙泰寺での3年あまりの修行(しゅぎょう)の後、勉学のため京都へ行き、檀林(だんりん=仏教の学問所)で6年半学びました。 明治37年(1904)5月、日露(にちろ)戦争のさなか福井の妙泰寺に戻り、岩崎貞(さだ)さんと結婚(けっこん)します。 翌年東京へ。 哲学館(てつがくかん=現在は東洋大学)で学びました。

東京では、小石川茗荷谷(みょうがだに)にある寄宿舎(きしゅくしゃ)に入りました。 龍妙上人はここで共同生活していた2人の友人と明治39(1906)年7月、身延山を訪れ、三門付近に群がるらい患者(かんじゃ)のようすを目(ま)の当たりにします。 山形からきたという15〜16歳の少年との出会いに深く心を動かされました。 祖廟(そびょう=日蓮聖人のお墓)に参籠(さんろう)し、日蓮聖人の啓示(けいじ)を受け救らいの決意をします。

ハンセン病とは すこし説明
しますね
 らい菌(きん)の感染(かんせん)によりおこる病気で、以前はらい病、ハンセン氏病とも呼ばれていました。 ハンセンは、明治6(1873)年にらい菌を発見したノルウェイの医師の名前です。
 鼻や気道から感染しますが、多くの人は免疫(めんえき)があり感染せずにすみます。 潜伏(せんぷく)期間は数年から数十年。 らい菌に対する免疫の少ない人が感染すると、結節(けっせつ)という腫瘍(しゅよう)が体や手足にでき変形し、眉毛(まゆげ)や頭髪(とうはつ)が抜けるなど、顔貌(がんぼう)に独特(どくとく)の様相(ようそう)が現れます。 免疫のある人が免疫低下により感染する場合は、皮膚(ひふ)に紅色斑(こうしょくはん)が現れます。 結節、斑紋(はんもん)には知覚麻痺(ちかくまひ)が伴(ともな)います。
 古くから感染者は差別され、近代になっても外見にはっきり表われるため差別が続きました。 遺伝病(いでんびょう)と考えられていため感染者の家族も差別の対象(たいしょう)でした。 のちに感染病であることが証明(しょうめい)されるのですが、不治(ふじ)の病であるとの理由で恐(おそ)れられ、差別や偏見(へんけん)がさらに激(はげ)しくなりました。 症状(しょうじょう)が梅毒(ばいどく)に似ていることもあって、それも差別の一因(いちいん)となった時期もあります。 明治33(1900)年の内務省(ないむしょう)調査では感染者数は約3万人とされていますが、実際にはその2倍はいたとも考えられています
 現在では、感染しても初期なら完治(かんち)でき、悪化(あっか)した場合でも進行を止めることができます。 世界では年間約30万人の新規(しんき)患者が報告されていますが、日本においては年に5名以下ということです。 国立ハンセン病療養所が13ヶ所、私立が2ヶ所あり、入所者数は平成18(2006)年12月現在3000名弱で、その多くが高齢者(こうれいしゃ)です。 ほとんどの人がすでに治癒(ちゆ)しているものの、社会復帰(ふっき)が困難(こんなん)なため支援(しえん)を受けている実情があります。

龍妙上人は、御殿場(ごてんば=静岡県)のらい療養所「復生(ふくせい)病院」(明治22年設立)を視察(しさつ)のため訪問(ほうもん)します。 東京では内務省に通い、東京にきていた久遠寺(くおんじ)法主(ほっす)の豊永日良上人に直談判(じかだんぱん)して協力を得ます。 同じ明治39(1906)年の10月12日、日本初の私立らい療養所『身延深敬園(じんきょうえん)』を創立しました。 身延山参拝(さんぱい)からわずか3ヶ月後のことです。 身延山内の身延川沿(ぞ)いに仮(かり)病室が建てられ、川原で生活していた13名を収容(しゅうよう)しました。 思い入れのあった常不軽菩薩の「我深敬汝等」─我(われ)深く汝等(なんじら)を敬(うやま)う─という教えから『深敬園』と名づけました。

当初は理解者が少なく多くの迫害(はくがい)や中傷(ちゅうしょう)が加えられ、国の社会福祉(ふくし)施策(しさく)はまったくなく、皇室(こうしつ)のご仁慈(じんじ)以外のすべての経費(けいひ)は私財(しざい)と托鉢(たくはつ)、一厘講(いちりんこう)、篤志家(とくしか)の寄付(きふ)で賄(まかな)われました。 一厘講というのは、毎日一厘ずつためたお金を寄付してもらうもので、一厘は今の一円くらいです。 寄付を求めて山梨県内だけでなく東京、静岡、愛知、大阪、岡山、福井などへも出かけました。 大正9(1920)年財団法人(ざいだんほうじん)の認可(きょか)を得(え)ます。 昭和5(1930)年には九州に分院を開設しますが、こちらは昭和17(1942)年軍事保護院(ぐんじほごいん)の要請(ようせい)により閉院し、敷地(しきち)を提供(ていきょう)しました。

妻の貞さんは大正10(1921)年に福井から身延へ移ってきました。 深敬園の看護婦長(かんごふちょう)として留守(るす)を守り、昭和32(1957)年9月79歳で亡くなりました。 龍妙上人は昭和45(1970)年12月に95歳で逝去され、娘(むすめ)の美智(みち)さんが深敬園の後継者(こうけいしゃ)になりました。 孫の直美(なおみ)さんもインドのアジア救らい病院で働くなど、龍妙上人の心を受け継ぎ、伝えています。

身延深敬園(みのぶじんきょうえん) もう少し補足です
 明治39(1906)年に綱脇龍妙さんが西谷(にしだに)に創設(そうせつ)したハンセン病救護(きゅうご)施設(しせつ)『身延深敬園』は日本では民間で最初のハンセン病救護事業(じぎょう)で、広く海外にまで知れ渡りました。 創設当初は『身延深敬病院』といい、昭和17(1942)年『身延深敬園』に改名(かいめい)されました。 大正9(1920)年7月、財団法人になりました。
 昭和45(1970)年10月には高松宮(たかまつのみや)さまご臨席(りんせき)のもと、創立(そうりつ)65周年(しゅうねん)記念式典(しきてん)が行なわれました。 特に厚(あつ)いご同情を賜(たまわ)った貞明皇后(ていめいこうごう)の歌碑(かひ)が園内にあります。 深敬園は平成4(1992)年に閉鎖(へいさ)され、現在は身体障害者養護(ようご)施設『かじか寮(りょう)』になりました。

役職歴・褒章など

山梨県の社会福祉事業全般(ぜんぱん)にも尽力(じんりょく)し、昭和26(1951)年に設立された山梨県社会福祉協議会(きょうぎかい)の初代会長を務めました。
昭和34(1959)年、日蓮宗大僧正(だいそうじょう)に昇叙(しょうじょ)されました。
昭和43(1968)年、身延町名誉町民に推戴(すいたい)されました。
身延深敬園創立経営(けいえい)の功績(こうせき)により
   大正10(1921)年、宮内省(くないしょう)より銀杯(ぎんぱい)を下賜(かし)
   昭和3(1928)年、内務大臣より銀杯を下付(かふ)
   昭和5(1930)年、貞明皇后より銀製花瓶(かびん)並びに金一封(いっぷう)を下賜
   昭和15(1940)年、勲(くん)六等瑞宝章(ずいほうしょう)を受章
          山梨県知事、厚生大臣(こうせいだいじん)より表彰
   昭和32(1957)年、藍綬褒章(らんじゅほうしょう)を下賜
   昭和39(1964)年、勲四等旭日小綬章(きょうじつしょうじゅしょう)
社会事業に尽瘁(じんすい)の功績により
   昭和26(1951)年、山梨県知事より県政功労者(こうろうしゃ)として表彰(ひょうしょう)
   昭和28(1953)年、厚生大臣より表彰、朝日新聞社より保健文化賞
   昭和43(1968)年、山梨県教育委員会より文化功労者として表彰
   昭和43(1968)年、日本仏教伝道協会より
          仏教伝道実践(じっせん)者として仏教伝道文化賞を贈与
昭和45(1970)年、正(しょう)五位勲三等瑞宝章を追賜(ついし)されました。

綱脇龍妙さんの
著書
貸出可 身延町立図書館にある資料です。
貸出ができます。
館内閲覧 身延町立図書館にある資料です。
貸出はできませんが、
館内で閲覧することができます。
貸出可 ■綱脇龍妙
綱脇龍妙遺稿集
深敬園
1976(昭和51)年12月
 綱脇龍妙さんの七回忌(しちかいき)の追善法要(ついぜんほうよう)の折の遺稿集(いこうしゅう)。
 困難な救らい活動にささげた生涯の軌跡(きせき)を、人類の闘病史(とうびょうし)のひとこまとして記録に残さねばならぬという、遺(のこ)された人々の切なる願いから発刊(はっかん)されたもの。 内観(ないかん)の記録。 信書(しんしょ)、講演(こうえん)、寄稿(きこう)など。
館内閲覧 ■綱脇龍妙 川島義教[編]
我深く汝等を敬ふ 綱脇龍妙自伝
2008(平成20)年1月
 『いのり』に連載(れんさい)された綱脇龍妙さんの自伝を一冊にまとめたもの。 『いのり』は法華倶楽部(ほっけくらぶ)(ホテルチェーン「法華クラブ」運営会社)機関誌(きかんし)で、自伝は昭和37(1962)年6月から昭和45(1970)年9月まで、71回にわたり掲載(けいさい)された。 昭和45(1970)年12月の逝去(せいきょ)により未完(みかん)。

関連資料
貸出可 身延町立図書館にある資料です。
貸出ができます。
館内閲覧 身延町立図書館にある資料です。
貸出はできませんが、
館内で閲覧することができます。
貸出可 ■トレヴァー・マーフィー
ハンセン病の療養所をつくったお坊さん
ルック
2006(平成18)年3月
 綱脇龍妙さんの生涯が、やさしいことばで綴(つづ)られた本。 小学校中学年くらいから大人まで。
 イギリス出身の著者(ちょしゃ)は、綱脇さんの生涯と思想(しそう)をテーマに山梨医科大学大学院で平成16(2004)年博士号(はくしごう)を取得(しゅとく)、現在は身延山大学の東洋文化研究所所員でもある。
貸出可 ■加藤尚子
もう一つのハンセン病史 山の中の小さな園にて
医療文化社
2005(平成17)年11月
 綱脇龍妙さん亡きあと深敬園を引き継(つ)いだ娘の美智さんは大正9(1920)年生まれ。 深敬園は平成4(1992)年に閉鎖、北関東に移住した美智さんを平成14(2002)年に訪(たず)ねた著者が、美智さんから聞き取った話を中心に構成した内容。 ハンセン病史を知る助けにもなる一冊。
貸出可 ■山本須美子・加藤尚子
ハンセン病療養所のエスノグラフィ
  「隔離」のなかの結婚と子ども
医療文化社
2008(平成20)年1月
 国立ハンセン病療養所でのフィールドワークをもとに、入園者の暮らしの諸相(しょそう)、変遷(へんせん)について、「結婚と子ども」に焦点(しょうてん)をあてて明らかにしたもの。 また、第七章には付記として、身延深敬園に関する調査をもとにした私立のハンセン病療養所との比較(ひかく)研究がなされている。
貸出可 ■身延山久遠寺[編]
身延山史
身延山久遠寺
1973(昭和48)年6月
●[続身延山史]第四章第八節「福祉と医療」
貸出可 ■身延町誌編集委員会[編]
身延町誌
身延町役場
1970(昭和45)年1月
●第八編第二章第一節「社会福祉と社会福祉協議会(一)財団法人身延深敬園」●第十三編第一章「名誉町民」
貸出可 郷土史にかがやく人々 集合編(U) 青少年のための山梨県民会議
1980(昭和55)年1月
●綱脇龍妙(執筆・小林是綱)

リンク

綱脇さん基金 The Tsunawaki Fund
 『ハンセン病の療養所をつくったお坊さん』の著者であるトレヴァー・マーフィーさんの運営するサイトです。 英語バージョンあり。
 ハンセン病に罹患(りかん)する人がほとんどいなくなった日本ですが、アフリカには今も多くの患者が病気と闘(たたか)っています。 アフリカ南東部マラウイ共和国の患者への援助(えんじょ)を呼びかけています。
日蓮宗ポータルサイト
日蓮宗ポータルサイト 日蓮宗のオフィシャルサイトです。 「日蓮宗とは?」の「法華経に支えられた人々」のコーナーで綱脇龍妙さんが取り上げられています。
 

【このページの参考文献・資料】

『郷土史にかがやく人々 集合編(U)』(青少年のための山梨県民会議) 『身延町誌』(身延町誌編集委員会) 『日蓮宗ポータルサイト(WEBサイト)』 『綱脇さん基金(WEBサイト)』

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