|
もっと詳しく…
明治39(1906)年7月24日、豊岡村清子(とよおかむら・せいご=身延町清子)で生まれました。 大正2(1913)年に小学校に入学、卒業後の1年間、准(じゅん)教員養成所で学びました。 大正11(1922)年には山梨県師範(しはん)学校本科第一部に入学、大正15(1926)年に卒業したのち短期現役兵勤務を経(へ)て、9月に教職に就きました。
猿橋(さるはし)、身延、帯金(おびかね)、豊岡、栄(さかえ)など、県内各地の小学校に赴任(ふにん)し、昭和22(1947)年4月には校長として豊岡小学校に赴任、校長職を16年務め、昭和38(1963)年3月に退職しました。
退職したのちは農業に従事しながら社会教育に携(たずさ)わり、社会教育委員、豊岡公民館長および民俗資料館長、教育委員、町誌編纂(へんさん)常任委員、民生委員、農業委員、山梨県美術館資料調査委員、青少年のための身延町民会議議長、山梨県文化財保護指導委員等、身延町文化財審議(しんぎ)委員など、数多くの役職を務め、地域のために尽力(じんりょく)しました。
日本民俗学会員、峡南郷土研究会の理事でもありました。 鈴木さんの研究の対象は民俗や地誌、歴史だけでなく文学や美術、民話にいたるまで多岐(たき)にわたっていました。 峡南郷土研究会の機関誌『峡南の郷土』に鈴木さんが長年にわたって執筆(しっぴつ)した論文は、分量としては決して多くはありませんでしたが、忘れられて行く身延の昔のことを書き留(と)めた大切な財産であり、身延の郷土について知る上で欠かすことのできない重要なものです。
俳句を趣味とし、昭和58(1983)年には喜寿(きじゅ)を記念して句集『芽ぶき』を刊行しました。 俳号(はいごう)の牛久保耕子(うしくぼ・こうこ)は、鈴木さんの家が「牛が窪(くぼ)」という屋号(やごう)の農家であったことから、「その家を守りその土地を耕(たがや)す」という意味でつけたということです。 昭和63(1988)年7月3日、83歳で亡くなりました。 |