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笠井南村さん

かさい・なんそん
 明治44(1911)-昭和57(1982) 身延町西嶋生まれ

なにをしたひと? もっと詳しく… 笠井南村さんの著書 関連資料


なにをしたひと?

 若いときから漢詩(かんし)の才能を注目され、昭和の漢詩壇(だん)の中心的存在となった漢詩人です。 漢詩誌の編集人として、衰退(すいたい)しつつあった漢詩の再興(さいこう)に力を注ぎました。 大東文化大学の教授を務め、40歳で帰郷したのちも県立高校や山梨学院大学などで教鞭(きょうべん)を取り続けた教育者でもあります。

もっと詳しく…

明治44(1911)年2月8日、笠井八百吉とやすノの長男として、西島村(にしじまむら=身延町西嶋)に生まれました。 本名は輝男(てるお)といいます。 大正14(1925)年に西島高等小学校を卒業しました。 昭和元(1926)年、15歳で上京し大東文化学院に入学、昭和5(1930)年には同校高等科(現大東文化大学)に入学します。 専攻(せんこう)は漢詩漢文でした。 そのころにはすでに、漢詩界の重鎮(じゅうちん)である国分青香iこくぶ・せいがい)、服部空谷(はっとり・くうこく)、土屋竹雨(つちや・ちくう)らの知遇(ちぐう)を得て薫陶(くんとう)を受けたということです。

土屋竹雨は日本漢詩の確立と普及(ふきゅう)に貢献(こうけん)した人で、日本漢詩誌の最高峰『東華(とうか)』を長年にわたり刊行しました。  『東華』は南村さんの発表の場であり、初掲載(けいさい)されたのは昭和8(1933)年6月発行第59集で、まだ22歳の若さでした。 昭和11(1936)年1月には、報知(ほうち)新聞主催(しゅさい)「全国漢詩懸賞(けんしょう)」に「乃木將軍歌」が最高位当選し、次第に評価を高め、数年のうちに中堅(ちゅうけん)漢詩人として遇されるようになりました。 南村さんは、詩だけでなく書道や篆刻(てんこく)も学び、文人としての教養を深めていきました。 外連味(けれんみ)のない南村さんの書は、高く評価されたということです。

昭和11(1936)年3月に卒業、長野県の旧制上田中学に赴任(ふにん)しました。 昭和16(1941)年に母校の大東文化学院に招かれ、中国文学科教授に就任(しゅうにん)しました。 昭和17(1942)年には日本文学報国会の結成に参画(さんかく)、最年少で漢詩漢文部会幹事(かんじ)を務め、「大東亜戦詩」の選者となりました。

昭和19(1944)年4月、戦争の混乱のさなか、継続(けいぞく)が困難となった『東華』が、第188集をもって廃刊(はいかん)になります。 『東華』は昭和22(1947)年に復刊(ふっかん)しますが、その際に編集同人となったのが南村さんでした。 さまざまな困難を乗り越えながら通巻250集、昭和33(1958)年3月まで続きました。

昭和26(1951)年3月、南村さんは大学の勤めを辞(や)め、故郷に帰ってきます。 急な帰郷の動機については確かなことはわかっていませんが、『東華』との関わりなど、漢詩の活動は変わらずに続きました。 帰郷してからの20年間は韮崎(にらさき)高校、甲府二高、甲府一高、市川高校の教諭(きょうゆ)を務めました。

『東華』が廃刊になった翌年の昭和33(1958)年12月、同志により新しい漢詩誌『言永(げんえい)』を創刊(そうかん)しました。 漢詩に書き下し文を付けたり、添削(てんさく)指導のコーナー「雌黄餘録(しこうよろく)」を連載(れんさい)するなど、初心者が漢詩を親しみやすい工夫を取り入れました。 『言永』の刊行は会員の減少や経済上の窮地(きゅうち)を乗り越え、昭和52(1977)年の第34輯(しゅう)まで続きました。

県立高校の教職をを定年退職した直後の昭和46(1971)年4月には、山梨学院大学の教授に迎えられました。 昭和49(1974)年4月、山梨学院大学在職中に病気で倒れ、闘病(とうびょう)生活を送ります。 病に倒れた翌年には『漢詩の味』を、昭和52年には第一詩集『抱樸集(ほうぼくしゅう)』上梓(じょうし)しました。 第二詩集『渭樹江雲(いじゅこううん)』が発行されたのは昭和57(1982)年、5月30日に71歳で亡くなる15日前のことでした。

南村さんのおひとがらは? なるほど〜
 南村さんの詩友だったという進藤虚籟(しんどう・きょらい)は、南村さんの突然の帰郷について、『漢詩の味』のなかで次のように書いています。
 …もともと、南村は、とうの昔に官立大学の教授になれるところを「後輩(こうはい)の席をおびやかすのはこのまない。 私には甲州(こうしゅう)の山と、村の酒があればよろし」として、大学教授の椅子(いす)を受けずに、甲州の高校教師として、東京を去っていったのである。 そうした事情を知るひとは少ない。 もちろん、彼は語らない。 私は竹雨先生が学長であった時代に、ごくごく先生の身近にいた一人であったから、よく知っている。 しかし、そうした精神は南村の詩の中に、また、富貴浮雲(ふうきふうん)と感じて泰然(たいぜん)としているその行動に如実(にょじつ)に見られる…
山梨漢詩会『山梨漢詩第4号』より
 また、『山梨漢詩 第4号』の「笠井南村、その人と詩」(内藤利信著)には、次のような記述があります。
 …西島の集落に入ると、南村宅に行き着く途中(とちゅう)に集会場があり、若者たちが集まって一杯やっていると、帰りがけの南村は必ず立ち寄り、「やあ君たちやっているな」と上がり込んだという。 南村は「座り相撲」の強者で酒席(しゅせき)で自ら若いものを誘っては挑(いど)み、まず負けたことはなかったという。 もともと頑健(がんけん)な躯(からだ)で堂々たる風格とその大声はいつでもどこでも異彩(いさい)を放っていたのである。 身だしなみなどいっこうに頓着(とんじゃく)せず、しかも博覧強記(はくらんきょうき)にして話しはじめると止むことがなく、その内容たるや雲を掴(つか)むような高邁(こうまい)な漢詩の話ときてはとても太刀打(たちう)ちできる相手ではなかったのである…
山梨漢詩会『山梨漢詩第4号』より

笠井南村さんの
著書
貸出可 身延町立図書館にある資料です。
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館内閲覧 身延町立図書館にある資料です。
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館内閲覧 ■笠井南村
漢詩の味
新星書房
1975(昭和50)年5月
小坂奇石(こさか・きせき)主宰(しゅさい)の書道専門誌『書源』に毎号連載された90話に、詩友・新藤虚籟による「南村の病中吟」10話を収録したもの。

■笠井南村
抱樸集
新星書房
1977(昭和52)年4月
『漢詩の味』とともに、進藤虚籟の勧(すす)めにより上梓した第一詩集。「青嵐・紅塵・天陰・晩晴」4巻の合本、約900首の自選詩集。

■笠井南村
渭樹江雲
漢詩人社
1982(昭和57)年5月
病中吟(ぎん)「養痾漫吟(ようあまんぎん)」(152首)と「抱樸集拾遺(しゅうい)」(153首)の2部からなる第二詩集。


笠井南村詩鈔

1996(平成8)年
『抱樸集』『渭樹江雲』の2詩集を合わせたもので、南村さんの没後(ぼつご)遺族(いぞく)により上梓。



関連資料
貸出可 身延町立図書館にある資料です。
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館内閲覧 身延町立図書館にある資料です。
貸出はできませんが、
館内で閲覧することができます。
貸出可 ■内藤利信 山梨漢詩会[編]
山梨漢詩人列伝
山梨漢詩会
2008(平成20)年9月
●笠井南村(輝男)の『抱樸集』『渭樹江雲』
貸出可 ■内藤利信[編]
山梨漢詩 第4号
山梨漢詩会
2003(平成15)年10月
●山梨の漢詩人 その1 笠井南村(輝男)、その人と詩(内藤利信)
貸出可 ■内藤利信[編]
山梨漢詩 第8号
山梨漢詩会
2007(平成19)年10月
●父、笠井南村を語る(笠井洌)
貸出可 ■内藤利信[編]
山梨漢詩 第7号
山梨県漢詩会
2006(平成18)年10月
●南村賞に県下多数の応募作、その表彰式を挙行(公募により行なわれた第1回南村賞の結果など)
貸出可 ■中富町誌編纂委員会[編]
中富町誌
中富町役場
1971(昭和46)年12月
●第五編「教育と文化」第五章「文化」(三)美術・書道・篆刻
貸出可 ■特定非営利活動法人つなぐ[編]
みのぶのびのびガイドブック 身延町中富編
  石垣の道がうれしいね、
  ほっとする和紙の里めぐり
身延町役場
2007(平成19)年3月
●日本屈指の漢詩人・笠井南村は、政治家・犬養毅の詩を添削した

【このページの参考文献・資料】

『山梨漢詩 第4号』(山梨漢詩会) 『山梨漢詩人列伝』(山梨漢詩会)

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