南村さんのおひとがらは? |
なるほど〜
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南村さんの詩友だったという進藤虚籟(しんどう・きょらい)は、南村さんの突然の帰郷について、『漢詩の味』のなかで次のように書いています。 |
…もともと、南村は、とうの昔に官立大学の教授になれるところを「後輩(こうはい)の席をおびやかすのはこのまない。 私には甲州(こうしゅう)の山と、村の酒があればよろし」として、大学教授の椅子(いす)を受けずに、甲州の高校教師として、東京を去っていったのである。 そうした事情を知るひとは少ない。 もちろん、彼は語らない。 私は竹雨先生が学長であった時代に、ごくごく先生の身近にいた一人であったから、よく知っている。 しかし、そうした精神は南村の詩の中に、また、富貴浮雲(ふうきふうん)と感じて泰然(たいぜん)としているその行動に如実(にょじつ)に見られる… |
山梨漢詩会『山梨漢詩第4号』より |
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また、『山梨漢詩 第4号』の「笠井南村、その人と詩」(内藤利信著)には、次のような記述があります。
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…西島の集落に入ると、南村宅に行き着く途中(とちゅう)に集会場があり、若者たちが集まって一杯やっていると、帰りがけの南村は必ず立ち寄り、「やあ君たちやっているな」と上がり込んだという。 南村は「座り相撲」の強者で酒席(しゅせき)で自ら若いものを誘っては挑(いど)み、まず負けたことはなかったという。 もともと頑健(がんけん)な躯(からだ)で堂々たる風格とその大声はいつでもどこでも異彩(いさい)を放っていたのである。 身だしなみなどいっこうに頓着(とんじゃく)せず、しかも博覧強記(はくらんきょうき)にして話しはじめると止むことがなく、その内容たるや雲を掴(つか)むような高邁(こうまい)な漢詩の話ときてはとても太刀打(たちう)ちできる相手ではなかったのである… |
山梨漢詩会『山梨漢詩第4号』より |
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