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星野秀樹さん

ほしの・ひでき
 昭和8(1933)-昭和29(1954) 朝鮮生まれ

なにをしたひと? もっと詳しく… 星野秀樹さんの著書 関連資料


なにをしたひと?

 若くして世を去った詩人です。 旧制(きゅうせい)身延中学校(現身延高等学校)文芸部および機関誌(きかんし)『峡南(きょうなん)文芸』の創始(そうし)期に関わり、詩や短歌の創作(そうさく)に励(はげ)みました。 のちに東京で労働者の詩人グループ「下丸子(しもまるこ)文化集団」の中心人物となり、詩の力で平和と自由を勝ち取るための活動をしました。

もっと詳しく…

昭和8(1933)年3月13日、朝鮮(ちょうせん)の全羅北道(チョルラプクド)群山(クンサン)で生まれです。 星野孝治、たか夫妻の四男、6人兄弟の末っ子として生まれました。 両親はともに曙(あけぼの)村古長谷(ふるはせ)、現在の身延町古長谷の出身でした。 星野さんのお父さんは、逓信省(ていしんしょう=のちの郵政省)の職員として大正時代の初めのころに朝鮮に渡りました。

その後、忠清北道(チュンチョンプクド)清洲(チョンジュ)、忠清南道(チュンチョンナムド)大田(テジョン)を経(へ)て京畿道(キョンギド)一山(イルサン)に移り住みます。 一山にいた6歳のときにお母さんが亡くなりました。 お父さんは郵便局を経営していました。 星野さんは幼いときから読み書きが好きで、小学生のころには近所の友だちと手書きの雑誌を作っていたりもしていたそうです。 昭和20(1945)年、京城(キョンソン=現在のソウル)の中学校に入学します。 この年の8月に敗戦(はいせん)を迎(むか)え、9月に家族とともに古長谷に引き揚(あ)げました。

引き揚げたのち、旧制身延中学の1年に転入しました。 昭和21(1946)年、石田永知さんを部長として文芸部が発足(ほっそく)し、『峡南文芸』が創刊されます。 星野さんは『峡南文芸』に作品を発表し、同級生の丸山照雄さん、上田武さんたちとともにスタッフとして活動しました。 昭和22(1947)年5月には国文学者の折口信夫(おりぐち・しのぶ)が来校し講演(こうえん)をしましたが、そのおりに星野さんの作品をほめたというエピソードがあります。 高校に入ると青年共産同盟(どうめい)の結成に参加します。 そのときの仲間が丸山照雄さんと1学年上の河上増雄(当時は林増雄)さんで、このふたりとは上京後も詩を通じての交友が続きました。

早熟(そうじゅく)の秀才 ははぁ〜
すごいですねえ
 星野秀樹さんは旧制身延中学に転入したころにはすでに、周囲の誰もが認める頭脳明晰(めいせき)な少年だったということです。 星野さんとともに文芸部の創設に携(たずさ)わった同級生の上田武さんはこのように記しています。 文中の「H」は星野さんのことです。
 …1Dのクラスには、今思いかえしてみても俊才(しゅんさい)としか言いようのないHがいた。 その時すでに、サルトルやスペイン人民戦線などについて、教室の窓際(まどぎわ)で奔放(ほんぽう)に論じるHの姿は、私にとってまぶしすぎる存在であった…文芸部に入り、下手な詩や小説めいたものを書きながらも、Hぐらいにゆけたらなと思うことが多かった…
県立身延高等学校創立六十周年記念誌『身延わが青春』より
(上田武さん「昭和二十三年度一年D組のことなど」)
 同じく同級生の松野重郎さんは次のように語っています。
 …星野は、成績抜群(ばつぐん)、雲の上の人でした。 まるで、別世界の人間、近づきがたいほどに、思想なども老成(ろうせい)していました。 絵に描いた高校生のような、すがすがしい感じでした。 でも、いやみなどは、まったくなかった。 教室では、寡黙(かもく)なほうでした
山梨文化協会機関誌『イマジネーション第2号』より

昭和24(1949)年、高校2年のとき、校内で政治活動を行なったという理由で放校処分(しょぶん)になりました。 上京した星野さんは大田区下丸子にいたお姉さんのところに同居し、都立小山台(こやまだい)高校夜間部に転入して、昼間は近くの工場で働きました。 星野さんは2年生だったのですが、全日制(ぜんにちせい)からということで3年に転入したということです。 小山台高校でも文芸部に入り、ここで井之川巨(いのかわ・きょ)さんと出会いました。 民主青年団を組織(そしき)し、演劇の指導(しどう)などもしていました。

昭和26(1951)年、下丸子文化集団という労働者の詩人グループ結成に参加します。 身延高校時代の友人であった河上増雄さんと丸山照雄さんも一緒でした。 高校卒業後は郵便局に就職して日中は働きながら、多くの深刻(しんこく)な問題を抱(かか)えていた下丸子文化集団の立て直しに努めました。 星野さんが実質的な事務局の仕事とリーダーの役目を果たしていたということです。 東京での活動における星野さんのペンネームは「江島寛(えじま・ひろし)」でした。

昭和29(1954)年、発病して逓信(ていしん)病院に入院し、 2ヶ月の闘病(とうびょう)生活の末の8月19日、21歳の若さで亡くなりました。 葬儀(そうぎ)は東京で行なわれ、共産党地区委員長が弔辞(ちょうじ)を述べました。 故郷では身内だけの葬儀が行なわれました。

上京後も活動をともにした身延高校時代の同窓生のひとり、河上増雄さんは、原水爆(げんすいばく)禁止署名(しょめい)運動とともに歌い広げられた『原爆を許すまじ』の作詩をした人です。 また、丸山照雄さんは日蓮宗(にちれんしゅう)の僧侶(そうりょ)で、宗教評論家(ひょうろんか)としても活躍、数多くの著書(ちょしょ)があります。 小山台高校時代からのつきあいで詩人として活躍し、星野さんの遺稿(いこう)集を出版した井之川巨さんは、平成17(2005)年に逝去(せいきょ)しました。

下丸子文化集団と「詩集・下丸子」 ちょっと補足〜
 星野秀樹さんが上京した1940年代末は、共産党(きょうさんとう)員や共産党支持者に対する弾圧(だんあつ)が厳しくなり、公務員や民間企業の社員が一方的に解雇(かいこ)される、いわゆる「レッドパージ」が行なわれた時代でした。 下丸子には多くの工場があり、「下丸子文化集団」は工場を解雇された労働者詩人を中心に近辺の工場労働者たちが集まって結成されました。 星野さんが参加するようになったころの下丸子文化集団は、さまざまな問題を抱えていました。
 …レッドパージを受け、職を失った労働者詩人たちは、生活上、創作上の問題を抱えて悩んでいた。 リーダーの離脱(りだつ)、加えて、主要メンバーの入院、検挙(けんきょ)、あとに残って、立て直しを図(はか)ったのは、大方(おおかた)、二十歳前後の若者たちだった。 その中で、実質的な事務局の仕事とリーダーの役目を果たしたのが星野秀樹であった。
 下丸子文化集団の活動は、多方面にわたっていたが、目指していたのは、武力ではなく、詩を書くことによって、詩を弾丸(だんがん)として、平和と自由を勝ち取ることだった。
 「詩集・下丸子」の発行、ビラ詩、壁詩による普及(ふきゅう)活動。 文化行事の開催、他のサークルと連携した行事の開催(かいさい)、獄中(ごくちゅう)にある人々の詩集の編集、その他、数々。
 「詩集・下丸子」は、自分たちの詩を載(の)せるだけでなく、集団以外の人々に詩を書こうと呼び掛(か)け、その詩を載せた。 暮らしの貧しさを訴(うった)える詩、平和擁護(ようご)の詩、失業、労働条件への怒(いか)りと闘(たたか)いの詩、さまざまな詩が、労働者、主婦から寄せられた。
 破られ、捨てられる、そんな運命のビラ詩、壁詩を書いた。秀樹は、その熱心な書き手だったという。 彼の才能を思えば、もったいないと感じられる。 しかし、それが、秀樹たちの活動であった。 昼間は郵便局で働いているのに、徹夜(てつや)でガリ版をきることもあったという。 武器を構えた監視(かんし)の目をくぐって配る、そして、走って逃げる。 緊張(きんちょう)の連続であった。 生活のすべてをかけて秀樹は闘っていた…
山梨文化協会機関誌『イマジネーション第2号』より

星野秀樹さんの
著書
貸出可 身延町立図書館にある資料です。
貸出ができます。
館内閲覧 身延町立図書館にある資料です。
貸出はできませんが、
館内で閲覧することができます。
■江島寛
江島寛詩集
江島寛詩集刊行委員会
1955(昭和30)年7月

館内閲覧 ■江島寛・高島青鐘 井之川巨[編]
鋼鉄の火花は散らないか
    江島寛・高島青鐘の詩と思想
社会評論社
1975(昭和50)年3月
江島寛と高島青鐘の合同遺稿集。 江島寛の詩44編、小説・評論など5編、友人たちによる追悼(ついとう)詩・追悼文など15編、年譜(ねんぷ)を収録。 序文は丸山照雄、あとがきは井之川巨が執筆(しっぴつ)。 『峡南文芸』に掲載された詩や創作『太極旗』も収録されている。

峡南文芸 第3号 山梨県立身延中学校文芸部
1947(昭和22)年9月
●随筆「断片」●短歌●詩「パンク」「エアプレン星座」●創作「太極旗」

峡南文芸 第4号 身延第一高等学校文芸部
1948(昭和23)年9月
●「不幸な象徴 マチネ・ポエティクに就て」



関連資料
貸出可 身延町立図書館にある資料です。
貸出ができます。
館内閲覧 身延町立図書館にある資料です。
貸出はできませんが、
館内で閲覧することができます。
貸出可 ■中富町誌編纂委員会[編]
中富町誌
中富町役場
1971(昭和46)年12月
●第五編「教育と文化」第五章「文化」(四)詩(漢詩)川柳
館内閲覧 現代思想12月臨時増刊 第35巻第17号
戦後民衆精神史
青土社
2007(平成19)年12月
●「下丸子文化集団とその時代」(道場親信)●「工作者・江島寛」(道場親信)●「討議・戦後民衆精神史」(成田龍一、鳥羽耕史、道場親信、池田雅人)●「詩と状況・激動の50年代」(城戸昇)●「資料 江島寛・井之川巨選」
館内閲覧 山梨文芸協会機関誌
イマジネーション 第2号
山梨文芸協会
2004(平成16)年6月
●評論「エアプレン星座─星野秀樹の作品、生涯、仲間たち」(佐藤信子)
館内閲覧 県立身延高等学校創立六十周年記念誌
身延わが青春
山梨県立身延高等学校
創立六十周年記念実行委員会
1982(昭和57)年11月
●「悼 星野秀樹」(丸山照雄)●「昭和二十三年度一年D組のことなど」(上田武)

【このページの参考文献・資料】

『イマジネーション 第2号』(山梨ふるさと文庫) 『中富町誌』(中富町誌編纂委員会) 『身延わが青春』(山梨県立身延高等学校)

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