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星野秀樹さん |
ほしの・ひでき |
昭和8(1933)-昭和29(1954) 朝鮮生まれ |
なにをしたひと? 若くして世を去った詩人です。 旧制(きゅうせい)身延中学校(現身延高等学校)文芸部および機関誌(きかんし)『峡南(きょうなん)文芸』の創始(そうし)期に関わり、詩や短歌の創作(そうさく)に励(はげ)みました。 のちに東京で労働者の詩人グループ「下丸子(しもまるこ)文化集団」の中心人物となり、詩の力で平和と自由を勝ち取るための活動をしました。 |
早熟(そうじゅく)の秀才 | ははぁ〜 すごいですねえ |
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星野秀樹さんは旧制身延中学に転入したころにはすでに、周囲の誰もが認める頭脳明晰(めいせき)な少年だったということです。 星野さんとともに文芸部の創設に携(たずさ)わった同級生の上田武さんはこのように記しています。 文中の「H」は星野さんのことです。 | |||
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同じく同級生の松野重郎さんは次のように語っています。 | |||
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昭和24(1949)年、高校2年のとき、校内で政治活動を行なったという理由で放校処分(しょぶん)になりました。 上京した星野さんは大田区下丸子にいたお姉さんのところに同居し、都立小山台(こやまだい)高校夜間部に転入して、昼間は近くの工場で働きました。 星野さんは2年生だったのですが、全日制(ぜんにちせい)からということで3年に転入したということです。 小山台高校でも文芸部に入り、ここで井之川巨(いのかわ・きょ)さんと出会いました。 民主青年団を組織(そしき)し、演劇の指導(しどう)などもしていました。 昭和26(1951)年、下丸子文化集団という労働者の詩人グループ結成に参加します。 身延高校時代の友人であった河上増雄さんと丸山照雄さんも一緒でした。 高校卒業後は郵便局に就職して日中は働きながら、多くの深刻(しんこく)な問題を抱(かか)えていた下丸子文化集団の立て直しに努めました。 星野さんが実質的な事務局の仕事とリーダーの役目を果たしていたということです。 東京での活動における星野さんのペンネームは「江島寛(えじま・ひろし)」でした。 昭和29(1954)年、発病して逓信(ていしん)病院に入院し、 2ヶ月の闘病(とうびょう)生活の末の8月19日、21歳の若さで亡くなりました。 葬儀(そうぎ)は東京で行なわれ、共産党地区委員長が弔辞(ちょうじ)を述べました。 故郷では身内だけの葬儀が行なわれました。 上京後も活動をともにした身延高校時代の同窓生のひとり、河上増雄さんは、原水爆(げんすいばく)禁止署名(しょめい)運動とともに歌い広げられた『原爆を許すまじ』の作詩をした人です。 また、丸山照雄さんは日蓮宗(にちれんしゅう)の僧侶(そうりょ)で、宗教評論家(ひょうろんか)としても活躍、数多くの著書(ちょしょ)があります。 小山台高校時代からのつきあいで詩人として活躍し、星野さんの遺稿(いこう)集を出版した井之川巨さんは、平成17(2005)年に逝去(せいきょ)しました。 |
下丸子文化集団と「詩集・下丸子」 | ちょっと補足〜 |
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星野秀樹さんが上京した1940年代末は、共産党(きょうさんとう)員や共産党支持者に対する弾圧(だんあつ)が厳しくなり、公務員や民間企業の社員が一方的に解雇(かいこ)される、いわゆる「レッドパージ」が行なわれた時代でした。 下丸子には多くの工場があり、「下丸子文化集団」は工場を解雇された労働者詩人を中心に近辺の工場労働者たちが集まって結成されました。 星野さんが参加するようになったころの下丸子文化集団は、さまざまな問題を抱えていました。 | |||
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関連資料 |
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【このページの参考文献・資料】 『イマジネーション 第2号』(山梨ふるさと文庫) 『中富町誌』(中富町誌編纂委員会) 『身延わが青春』(山梨県立身延高等学校) |