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自著(じちょ)『武道経歴一班』によると、長作さんは13歳のときに家族のもとを離れ、武者修行(むしゃしゅぎょう)の旅に出ました。 静岡へ出たのちは西に向かい、鍛錬(たんれん)や試合を重ねつつ、九州まで行きます。 この修行の旅は5年にわたりましたた。 修行の旅を終え故郷にしばらくとどまったのち、上京します。 四谷の山岡鉄舟の道場で7年間学びました。
その後、甲府(太田町)、横浜、東京(両国、本郷、小石川)などの各地に道場を作っては、経営および武術の奨励(しょうれい)のためその地に7年、8年と留まる、という年月を送りました。 大正2(1913)年、千葉周作(ちば・しゅうさく)の武門を継(つ)ぎ、自宅道場にて多くの門弟を養成しました。 また、各地で剣道大会を催(もよお)したり、靖国(やすくに)神社で毎年春秋2回の奉納(ほうのう)大会を計54回開催するなどして、剣道の発展に寄与(きよ)しました。
千葉長作さんは、昭和10(1935)年1月5日に亡くなりました。 大塩の薬王寺の過去帳には、「長光院仁剣智範居士」との戒名(かいみょう)が記されているとのことです。 その生涯(しょうがい)のすべてを剣道のために捧げた千葉長作さんですが、『武道経歴一班』のなかでも次のように語っています。 「要するに余(よ)の一生は、武道を以(もっ)て終り、其(そ)の行動は聊(いささ)か世道人心(せどうじんしん)のため涓滴(けんてき)の裨益(ひえき)であることと信ずるを以て、敢(あえ)て概略の経歴を記して世人に示す所以(ゆえん)である」。
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